6. 自然と自然な話   池西剛

 

 

やきものに関わっていると、「自然」という言葉を不自然に多用する人間に対して、自然と違和感を覚えるものです。

その言葉の選択は常に、「人間」と対峙するそれ以外のものという、究極の「上から目線」を感ずるからです。

とくに「大自然」となると、出ました決定版!!です。

 

人間も自然に含まれるモノです。

そういう言葉を乱用することで、いったい何から逃げようとしているのでしょうか。

 

高層ビルも、人間由来の地球温暖化も、原発も戦争も、アライグマが四国にいるのもすべてが「大自然の成せるわざ」です。それらを本来何とかできるのに、ますます酷い方向へ向かわせる人間のバカさ加減も、同じく立派な大自然です。

 

やきものの話に戻ります。

「地震」はヒトの力では今のところ、どうにもならないようです。

大きな地震は人間にとって、甚大な被害をもたらしています。

「やきもの屋」などは他業種に先がけて、窯などを含めさまざまなものが壊滅します。

予防策はいずれも気休め程度の虚しいものばかりです。

 

他業種者はともかく、「やきもの屋」にはたとえ身内や自らが亡きものになるなど、如何なることになったとしても、決して地震を呪ってはならない理由があります。

 

繰り返す地殻変動なくしては、ほぼ全てのやきもの原料は存在していないからです。

この事実はどうにもこうにも絶対的なものです。

つまり「やきもの屋」にとっての地震は「大自然の恩恵」なのです。大喜びするにはさすがにつらいですが、少なくとも文句をいう筋合いはありません。

 

しかし、「やきもの屋」が本当に大変なのはここからなのです。

それら多くの犠牲を伴って出来たであろう「原料」を、片や同じく自然物である人間がその分子構造まで無許可で好き勝手に変えているわけですので、これを「それなり」のものに仕上げぬ限り、単なる自然破壊者となります。「と、なる」!のです。

 

ここで思うに、ひょっとしてこのことは、やきもの屋以外にも「意外に」自然と当てはまってしまうのではなかろうか?と思ってしまうことは、やはり気のせいにしておくことが、現代という実に不自然なものに対するうえでの自然なのでしょうか。