7. 「やきものがわかる」話   池西剛

 

どうすれば「やきものがわかる」か?という質問を受けることがあります。

「予想される最良の方法」でよければ答えるのは簡単です。

 

まずは「近現代」以前のこの世に存在するすべてのやきものを観て、(近現代陶を“やきものの歴史”に載せるには時間の淘汰が充分ではありません。また近代はそれより前代があって初めて「近代」なので、それ以前のものを知らないということは「現代」ではなく、単に「原始」に逆戻りしただけのこととなります。更に「現代人」は「原始人」よりヴァイタリティーにおいて著しく劣化していると思われますので、現代人がにわかに「原始回帰」したところで、ただの退化にすぎません)そのすべてに「興味」を含む何らかの見解を持ち、可能な限り買い求め手元に置いて観察と使用とを繰り返し、それらの生産遺構の陶片を調べ、探し出すだけでもナゴヤダルマガエルより困難な「その種の先人たち」を取材し、それらの全種類をひと通りすべて現地の素材を採取して自ら(片手間にではなく)焼くことを生涯繰り返すことによって初めて、何か少しくらいはわかることもあるのかも知れません。

他に必要なものとしては、「わかった」「知っている」と自分で少しでも感じたならば、結局それが何もわかっていないことだと即座に自覚する心得などでしょうか。知識などいくら蓄えても「わかる」こととは別のものです。

それ以外の方法で「わかる」方法などは一つたりとも無いと予測します。これは中途半端にやっても却ってわからなくなるだけなので結構大変そうですが、決して不可能とも思われませんので、ぜひどなたか試してみて下さい。

 

と、ここでせっかくの質問、回答を共にぶち壊してすみませんが、残念ながら上記のような人を未だ実際に見たことも噂で伝え聞いたこともありません。

もっとも私自身、「やきものがわかる」ということが何をわかるということなのかわかりませんし、またそれ以前になぜ「やきものがわかる」必要があるのかということも知りません。

あるやきものを見て、たちどころに「これは何時代の何だ」というのは“ただの鑑別”、「この作者はこうしたかったに違いない」というのは“もしかして忖度”です。こういったことならば難しくはありませんが、いずれにしても「やきものがわかる」ということとは別のものです。

 

もしそれでも、どうしても「やきものがわかる」ことを希望するのであれば、まずそのための必要絶対条件は「やきものそのものへの興味」でしょうか。

「やきものそのもの」とは、目の前のやきものから全ての予備知識や付加価値、言語情報など周辺事項をことごとく取り去った残りの“物質”のことです。

そうした結果、“知識”を取り去る前と後の「興味」が寸分たりとも違わない場合、これが「やきものそのものに興味がある」ということです。ひょっとすれば、これは「やきものがわかる」ということへ連なる唯一の道標なのかもしれません。

それ以外の場合ではすべて「やきものであることにも興味がある」ということになりますが、そのことを認識さえしていれば、それでとくに問題はないのです。ですがそれでも「やきものそのものへの興味」が強いほど、そこから読み取れる時代背景や民俗史、個々の動きなどといった情報の質と量が格段に豊かなものとなり、情報の「読み違い」も減らすことができる傾向にあることは間違いなさそうです。

 

最後に私事ですみませんが、確かにある一定期間「やきもの」に関わってはいますが、「やきものがわかる」どころか、やきものなどに関わっていればその他諸々の事もことごとくわからなくなる一方で、遂にはわかるということが一体何なのかさっぱりわからなくなった、というのが「やきものでわかった」ことのすべてです。

そしてまた「やきものがわかる」となると、やきものの歴史に対し重大な責任を負いそれを果たす義務が生じ、決してそこから免れることはできませんので、本気で「やきものがわかりたい」などという、勇猛果敢にして壮絶な覚悟を胸に身を挺して日々を闘い続ける方がいれば、ぜひ私のヒーローとして崇めさせていただきたいのでその出現を熱望しています。

 

ですから冒頭のような質問を私に向けても無駄です。