山田洋樹さんは人生の半ばまではまっとうな人生を歩んで来られました。
司法書士という、やきものより格段に一般社会において必要とされる仕事に従事され、大学、大学院での生物機能工学の研究もまた然りでした。
ですが、ある日ふと立ち寄った店で見かけた志野に魅了され、その初対面の作者に一年越しに入門を乞い職を捨て、更には何と「やきものに関わったことで初めて”命を賭けるに足るもの”を見つけた」のだそうです。正気の沙汰ではありません。
実はやきものには、この「正気の沙汰でない」ことが必要不可欠で大切な要素であり、これが“現代陶芸”と呼ばれているものに最も欠けた部分です。それこそが「やきもの生活」の本質です。
念のため、本人は「土の持つ本来の美しさと姿を引き出し、奢ることなく愚直に作品作りに励んで行きたい」といういたって真摯でまっとうな人柄なのであって、正気の沙汰でないのは行動の選択とその作品のことです・・・(ですが冒頭の一見とてもまっとうそうな経歴も、よくみると何だかちょっと変かもしれませんね)。
まわりくどい言い方ですみませんでしたが、山田洋樹さんの焼く白い志野には”志野本来の正しさ”というものを見て取ることができます。これは実に稀なことなのです。
近年では志野に限らず「王道のやきもの」というものを志し、それを実際に生み出せる作者は数えるほどしか実在しないのをもどかしく感じて久しいものです。もちろん現在は未だ周知されていないようですが、「王道の正しい志野の釉質」を実現し得た作者は、近現代でこの山田洋樹さんただ一人であると断言できます。
志野は先ずはとにかく肌質が命ですので、これが実現さえ出来ていれば、あとは山田さん生来の「分析し構築してゆく」という体質がこれまた志野の造形には最も適する方法論なので、したがってこれから生み出されてゆく作品には尋常でない発展の可能性が窺えます。この志野への専念を志す有望な作者の出現は非常に喜ぶべき出来事です。
その原点といえる現時点での山田洋樹の志野をまずは酒器にてご覧下さい。これらの作品は水利きが良く、かつ使用後に臭いの残ることもなく汚れにくいことも特質です。