「こだわり」というのは、良くない病である。
大概は、幼児性アイデンティティーの凝固したものである。
ここで確認しておかなければならない。「これに限る」の性質についてである。
例えば、「このやきものの焼き成りを得るには、この素材とこの熱処理に限る」という時、次の二つが想定される。
まずは文字通り、その結果から経験値によって逆算すれば現時点での選択肢の限界としてそれを選ばざるを得ない、という場合である。
これは結果に対しての手段にすぎず、そこに何ら気分的なものは介在しない。
常に他の選択肢を模索しながらの過程のひとコマであり、これは「こだわり」とは全く無縁のものである。誤ってはならない。
次に、精神的なニュアンスが含まれた「なければならない」の場合である。
つまり、「これに限る」がその者にとっての自負心となり、存在意義にすら化けてしまっている場合であり、これが冒頭で述べた症例である。
こうなった者は自らが選んだもの以外に対し否定的であり、他を落として自らを上げようとし、基本的に意見を異にする者を認めたがらない、などの症状がみられる。
他の可能性の模索を反射的に避けていて、それに気付くことも無い。そして同類の周囲とともに「こだわってます」と言って喜んでいるうちに重症は通り過ぎ末期症状となる。
こうなった者からは「伸びしろ」は失われ、意固地で拡がりや可能性の無い老後が約束される。
「こだわり」とは、固執し拘泥し、細胞は死滅のみを続け、視界は「前方14度に限」り、やがてその足はダルマになる、という大意である。「こだわり」は「こわばり」なのである。
「前向き」という発想もこの病の仲間である。意識の有無や都合とは無関係に、空間は常に全方向に存在するものなのだ。
この症候群の予防は案外にたやすい。
そんなものにとり合わなければよいだけである。