やきものを観るため、美術館を訪れた時、皆様が入館してまず感じることは何であろうか。
たいていの場合、私は「照明が暗い」「配置が酷い」である。まず今回は前者について話す。
やきものを観るにあたっては質感(マチエールとテクスチュア)が発信する情報はその形や色さえ凌ぐ最大のものである。これに対してはほとんどの展示において、何の工夫もされておらずほぼ観察不能である。色の正確さもそれに付随し、形さえも雑な照明による不要な陰影により邪魔されていることが多い。つまり「~をみた」という体験ならいざ知らず正確な観察を可能にするには程遠い環境である、ということだ。さて、そこまでは美術館の予算や借用先からの(実に下らない)制約、館員の能力などの諸事情があろうから、まだ仕方はない。問題はここからである。そういう事情であらばと、こちらはペンライトを用意して出かける。なにしろこちらは「美術館に出かける」ことが目的ではなく、「やきものを観るために仕方なく美術館に出かける」のである。
では、まず入館する。案の定、酷い照明だ。碗なりのものの下半側面など、ほぼ陰になっており確認できない。やむを得ず少しの間、ペンライトを使い確認作業を始めると、登場するのが監視員(通常、なぜか女性)である。
彼女らはふだん、何を尋ねても休館日くらいしかまるで答えることのできない者がほとんどであるが、こういう時だけは実に飛ぶようにやって来てこう言う。「お客様、ペンライトは禁止されております!」。そこで「お客様」はその理由を尋ねる。この場合、「規則でそう決まっていますから」との答えが確約されており、これはほとんど美術館での風物詩といってもよい。ちなみにこの回答は、自らのアタマを使わないバカ者の典型的な常套句である。そこで次に「では、展示責任者を呼んでください」とお客様は言う。しばらく間を置いた後、学芸員か事務局員かがやって来るが、ここでも再び「バカ者達の自動音声」を聞くことになる。日本国民が近年、その人間力において著しく低下している事例はよく耳にするが、その現実をまのあたりにしてしばし憂うが、そんなヒマもない。ここはひとつ、この国の文化水準向上のためひと役買わねばと「それでは回答になっていない。紙や布とは違いやきものは、たとえハロゲンライトで百万年照射を続けてもその原因では微細なりとも影響を受けることはない。もう少しマシな回答をせよ」と返すと、次にくる人気No.1の回答は「他のお客様のご迷惑になりますから」である。当然、こちらは「他のお客様」が居ない時を細心に気遣って承知のうえ、なのである。そのことを伝えるとたいがいの者が役人根性と言えば役人に失礼である「ただのバカ者」に再び回帰する。まれに「当館は国際照明学会(!)により年間の総光量が制限されています」などの回答もある。事実なのであろう。ただ、ホタルに毛がはえた程度の(毛むくじゃらのホタルも恐いが)ペンライトが、その「総光量」にどれだけ貢献できるかについての議論は徒労で、それがやきものに及ぼすダメージについては前述のとおりである。よって彼らとの不毛な対話はここで打ち切り、常日頃より準備している「独自のやりかた」を実践し、充分に観察を終えた後、閉館とともに立ち去ることとなる。この「独自のやりかた」については、それぞれ各人が経験と工夫をもとに、自分に合う「やりかた」を開発していただきたい。現状を放置していると、彼らが口で言うように美術を紹介し世に普及させるということに実際はいかに著しく不適任者であろうが、今後もこれが改善される可能性は少ないであろう。
現在この国は、美術館・博物館の入館者数では世界有数、そして、それに対する美術品購入者数の少なさにおいて、これもまた世界有数である。反発を承知の上で断言する。美術品は、それを自腹で購うことのない者には、絶対にわからない。また、買ったからといって「わかる」保証も当然なく、わからなくとも日常生活において何ら障りのない現代社会において、「わかるとは何か」についてこれらの者達と議論することもまた不毛である。
この、美術館において見られるサルに劣る群衆心理と行為とがこの国のニセ議会制民主主義の主人公であるかぎり、この国の未来にまず希望はない。
ただしこの事態を解決するのは実は簡単なのである。
各人がすべて自らの眼で観、自らのアタマを使って考えてそれをもとに自ら判断し責任をとる。常識やバカな国民感情に影響されず、間違った「規則」には徹底して抵抗する。これでよい。
せめて美術関係者には、その仕事との心中を決定のうえ日常を送っていただければ、美術が社会に貢献できる日も現実となるであろう。