「このやきものは何処の土を使って焼かれたものですか?」という質問も、よくある問いの上位に常にランクインするものです。
これに対する唯一の答えは、質問者を直ちに採土現場のさらに採掘したピンポイントに連れて行って「ここです」と答える以外には、問答ともに全く無意味なものとなります。
なぜならば「備前」とか「美濃」などと答えたところで、そこには性質のまったく異なった「土」が控え目に言っても何千とあるからです。
その現場で特定の1メートル四方の間にも、性質の異なった土が何種類もあることはザラです。
また、備前の土で美濃もののように焼くこともその逆も可能で、極めて一部の者を除いてまず「それ」で通ってしまいます。あるいは、どう焼いても一般には「備前」にしかみえない土、というものもあります。
さらには全く同じ土でも、焼成法によっては焼いた当人が見ても判別不可能な、まるで別のやきものになります。
上記の応答を傍で聞いていると、日本人同士で「あなたはどこのひとですか?」、「日本です」という会話に聞こえます。
因みに近世以前の古陶磁の場合、土肌を見れば大体の産地と焼成時期などを特定できるのは、当時の製陶従事者(に限らないと思いますが)は、「人間という動物としての天然の科学力」を持ち、「正しいやきもの」に無駄なく最短距離で到達しているであろう情報が、遺物から読み取られるからです。
科学の発達は人間の動物としての能力の衰退に比例するものです。
スポーツ観戦のバカ騒ぎも、それに同じと思っています。
動物としての各種必須能力をあらかた失った現代人が、自己愛を満たすために好き勝手作ったほとんどの「現代陶芸」にその情報開陳を求めたところで、あまり役には立たないと思います。
同種同類の質問に「何度で焼いたか」「何日焼いたか」「何窯なのだ」、などがあります。