4.  仮面の下に

 

店主はこのコーナーのことを忘れているのではないのかという噂もあるが、それは単なる噂である。ネタがなかったというと底の浅さが知れてしまうので、忙しかったのだと日記には書いておこう。

 

先日、旧知のギャラリーで紅茶を頂いているとき、そこのご主人があるカメラマンの作品の話を始めた。私はその名前を寡聞にして知らず、どんな作品をとっておられるのかと尋ねると重い正方形の写真集を書棚から持ってきてくれた。
タイトルは「PERSONA」という。鬼海弘雄というのがそのカメラマンだった。

 

persona

 

本を開くと地味なあるいは濃い市井の人物のポートレートばかりが並んでいた。ポートレートだから「PERSONA」なのかなとしっかりよけいな先入観を形成しながら読み始めたが、次第にページを進む手が遅くなる。少し前のページに戻りまたすすむ。
何てこった!やられた、行きずりの人のポートレートをここまで面白くできるのか・・・。これは酒を呑みながらじっくり肴にせざるを得ない。と早速ネットで探して購入した。インターネットは問題も多いが、絶版になっている古本や廃盤CDを簡単に手に入れられる点では絶大に評価したい。

 

浅草で出会う通りすがりの人々の写真、それも背景は決まって寺の境内らしき影の出来ない日陰だ。被写体は自然体ではない。撮られることを充分意識して微かにその人なりの見得を切っている。東京でも銀座や丸の内などにはいそうもない強烈な市井の人々が次々と登場する。内側から存在がしみだしてくるような気配でそれだけでも十分に楽しめるのだが、その楽しみを倍増させるのがキャプションだ。写真と対等で相乗効果を生む、作品と呼べるキャプションとはこのことだろう。

 

曰く「なかなかシャッターを切らないことに、舌打ちする人 1998」、「28匹の狸をしめてつくったというコートのひと 1999」、「以前、ちょっとしたショウバイをしていたというひと 2001」、「十円硬貨を耳栓にしていた、日本画とジャズが趣味というひと 2003」、「『エステ』で働いているという、表情を変えない男 2001」、「手におしろいを塗っている、礼儀正しい少年 2002」・・・。面白すぎて終わらないのでこの辺で我慢しよう。
そうそう、「仲の良すぎるカップル 2000」というのもあった。これなどまさに写真は仲の良いカップルなのだが、撮影者が何かを感じ、あえてつけたのであろう『良すぎる』ということばが、破たんを予感させたり、あるいはカメラを意識した過剰な演技を想像させるのだ。

 

この、浅草で出会う人シリーズはカメラマンのライフワークらしく、以前撮った被写体の10数年後の姿などというものがあり、これがまたその間の表情の変化に、まんまと歳月の中のドラマを妄想させられてしまった。

 

人はいろいろな仮面をかぶるが、その仮面の裏には様々な人生を歩む「人」が必ずいる。まるで違う世界に生きるようでも我々の生きる世界は一つ。貴方が浅草を通りかかり、鬼海弘雄に写真をとられたとき、その姿とキャプションはどうなるか。想像してみるのはどうだろう。