私達やきものギャラリーが取り扱うやきものは、世間一般の大半の人々にとって単なる不要品です。
これらを「生活必需品」として日常の生活に取り入れている人は、現在この国に何人くらい居るのでしょうか。一説によりますと、全国平均でかなり多めに見積もって、80万人に1人くらいであると考えられています。
わが国では、私達よりも「やくざさん」に仕事を依頼する人々の方が、随分と多いのです。
この国の美術館入場者数は「世界でも有数」なのだそうです。そうでしょうね。都市部の主要展覧会は、そのおかげでまともに鑑賞できる状態にはありません。(美術館の工夫というか、その意識レベルが低いのが原因です)。
この動員数データの続きはこうなっています。「であるが、美術品購入者は下から数えた方が早い。」
先述の「世界有数」の人々が、せめてその100分の1でも本当に美術品愛好者であったならば、この国の美術市場は活気を帯びているはずなのです。
つけ加えると、この不自然に大量の美術館入館者数のほぼすべてが「特別展」に限られています。
美術館にやって来る大多数の人達にとって、美術品は「カピバラ」と同じものなのです。(※注.「カピバラ」が良くないとは言っていません。私は「パンダ」よりは好きです。)
今回のタイトルに思想ということばを用いましたが、思想とはなんでしょう。
人によってその定義はいろいろでしょうが、私はこれを、日常普段の感覚や思考のひとつひとつを一度取り出して、観察したり形を整えたり修善したりして、また元に戻す作業を繰り返すことだと考えています。これを普遍とするために体系を立てて学問としたものが哲学です。思想と哲学とは素材と作品との関係に似ています。
ではなぜ、ものを買うことが、思想なのでしょうか。
衣・食・住を最低限維持するために必要なものは生活必需品と呼ばれています。
それに対して嗜好品と呼ばれているものがあります。
単純にいえば、なくてはならないものとそうでないもの、ということです。
このとき、ある人にとっての不要品が、別のある人にとっては必需品、またはその逆、という「境界」が生じます。その境界こそが、ここで述べている思想の原点なのです。
通貨(お金)はそのことば通り、世の中のさまざまなものとの交換が可能、つまり「買う」ことができます。「カネで買えぬものなどない」と言う勇猛果敢な人もいるくらいです。
その「たいがいのものは買えてしまう」お金を、ある特定のものに限定して注ぎ込む行為を「買い物」といいます。
これが生活必需品ならまだしも、世間一般では不要品の代名詞のような美術品の場合、ちょっとひとつ買うと「給料三ヶ月分」は当たり前だったりするわけです。
思想は「多くの可能性を切り捨てて限定させること」でもあります。ある一線を越える取捨選択はもはや哲学と言えます。
古来、強い志をもって自らの思想を実践し続けた先人達は、常にリスクを背負い様々な苦難に遭遇しながらも、後世に偉大なる遺産を残してきました。
美術愛好者の皆様!貴方の行いはまさにそのド真ん中、思想、哲学の実践なのです。