店主がJ.S.Bach、 バッハを好きになったのは小学校から中学生の頃、両親が自分たちはクラシックは聴かないのに恐らくは教育の為にと買い与えてくれた三分間バロック名曲集というLPレコードがきっかけだった。バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディ、テレマンくらいだったと思うが、本を読みながらいつもかけていたので当時読んでいたいろいろな本の主題歌のように頭に刻まれてしまった。バロック音楽が総じて好きなのはその刷り込みもあるのかもしれない。
その後モーツアルトやベートーベンなどもたまに聴いてみたのだが、ベートーベンは大げさで鬱陶しく、モーツアルトは軽薄で冗長で余分な飾りが多すぎると感じ、大嫌いであった。まあ神をも恐れぬ中学生である。
高校の頃は、クラシック、ロック、フォーク、歌謡曲、フュージョンと普通に色々聞きつつ、18歳くらいからはプログレッシブロックやらモダンジャズやらにはまりだしていった。レゲエや邦楽(謡や三味線)が面白いとおもったのもこの頃だった。色々な時代の小説に登場する音楽を聴いてみることから派生して新しい音楽との出会いがある事が多かった様に思う。
当時はFMラジオが全盛で、貧乏学生の音源調達といえばFMエアチェック(FMからの録音と書いた方がよいのだろうか?)が主流であり、雑誌FM FanやFMレコパルの番組表は、何時何分にどの曲がかかるかを調べるために、また今かかっているこの曲はなんだ!?という時の貴重な情報源だった。
ちょうどそのころFM番組でグレングールドというクラシックピアニストを知った。バッハの曲だった。最初はイタリア協奏曲とフランス組曲だったと思う。衝撃的だった。クラシックのピアノ曲なのにジャズを聴いているのと同じ感覚になったのだ。しかもクラシックピアニストがノリで鼻歌を歌ってもいいんだ!音楽の面白さを味わうのにジャンルが意味のない事を強く意識したのはこの時だったのかもしれない。
バッハとグレングールドの曲の聴きあさりが始まった。バッハはピアノ曲からチェンバロ、オルガン、弦楽器、合奏曲、ミサ曲、フーガの技法、カンタータへと進んでいき、カトリックの幼稚園は出たがクリスチャンでもないのに「葬式にはロ短調ミサ曲かフーガの技法をかけてくれ」とか言い出して病は膏肓にはいった。死んだら聴けないのに間抜けな山羊である。
グレングールドは何を弾かせても独特の解釈で聴くたびにいろいろな発見をくれた。おかげでモーツアルトもベートーベンもアレルギーがなくなったばかりか、その素晴らしさと奥深さにやっと気づき、その他の演奏家でもどんどんその良さを理解できるようになった。自身の偏狭な好みを深く反省したものである。
今でこそ思う。作曲家や演奏家の名前で聴いている場合を除いてだが、多くの人が愛する音楽はやはりそう思うだけの魅力をもっているのだ。「理解できるが嫌いだ」という人は別として、私のようにそれを理解する段階までいかないために好きでないというケースもあるだろう。それ以来私は、「嫌い。」ではなく「今はまだ自分がその面白さを理解できていない。」と思えるようになり、その結果、世界は少し大きく、さらに魅力的に拡がった。