4. つちとほのおかむのうかあほうのげいじゅつ    池西剛

 

 

世阿弥元清(能楽師・1443年没)の言葉に「秘すれば花」というものがある。

世阿弥青年期の芸論「風姿花伝」のなかの一節である。

「ネタばらしをやってしまうと面白くないですよ」という意味で、前後を通して読めばすぐわかるのだが、これを「日本的な奥ゆかしさの象徴的表現」だ何だと妙に変てこな曲解をするものが多い。よく読まずに言葉づらの雰囲気で早合点するからそうなる。(ちなみに「奥ゆかしい」のがよければ本書には「老木に花」や「しほれたる」など、いろいろとある。)

 

なぜこんな話をしているかといえば、やきものに関わり合っていても、これと似たような例をそこら中に散見するからである。たとえば「土と炎の芸術」。(思わず「体言止め」をしてしまったではないか!)

 

土は材料である。パンは幸いにも「小麦と炎の芸術」などと呼ばれなくて済んでいる。

 

炎に関しては燃料が燃える時の副産物で、むしろ窯の中の様子をみるにあたって邪魔なだけのものなのであるが、熱カロリーを得るためにものを燃やせば出るのだからこれは仕方がない。

熱カロリーの他に必要なものは煙の方、つまり炭素である。炭素の量と出入りのタイミングとが、新窯とそれ以外の窯との最大の相異であるが、もちろんどちらの窯で焼かれたやきものの方が良いということではない。昔は薪か石炭くらいしかカロリーを稼げる燃料が無かっただけの話である。現代では焼こうとするやきものの性質に応じた燃料の選択肢は増えている。炎を全く出さなくてよい窯もある。

 

さて、先のコピーを正しく言い換えるとすれば、「アルミナや硅素、そして水素や炭素などの化合物と不純物の多い金属との熱による分子構造の変換」あたりであるが、長いので「やきもの」でよい。

では「芸術」とは何であり、何処に在るか。

それは、見る者が「芸術だ」と言えばその者にとっては芸術、「やきものだ」と言えばその者にとってはやきもの、「カス」だと言えばカス、つまりはそうやって見る側の者が勝手に決める。たとえ芸術呼ばわりされても当人は決して文句を言ってはいけない。

 

関係当事者が余計なことを口にしていると、そのうち彼らは本当に「芸術家」や「作家さん」になってしまうことであろう。恐ろしいことである。

この日本は、古来より「言霊の国」であるのだ。