「この作者の近作には桃山の気風が現れ始めた。しかしそれは単なる桃山の再現には留まらず~以下云々・・・。」
相も変わらず「陶芸界」のメディアや評論には、この手の文章が横行するのです。残念なことだと思います。
では彼らはその「単なる桃山の再現」を、実際にこの世のどこかでひとつでも見たことがあるのでしょうか。
彼らはいつも、似て(すらもなく)非なるものを「再現」と呼んだ上で、冒頭のような発言を繰り返して平然としている、ということは「単なる節穴」なのではないでしょうか。
「単なる再現」すらできない者は「その次」に行くことは絶対に出来ません。留まるもへったくれも無いのです。
初歩の必須行程である「単なる再現」を、彼らは実に無責任に阻害し続けます。(もちろんされる方が悪いのですが。)
いずれにせよ、冒頭のような視点は全く何の意味も成さないのです。
歴代のやきものには、良いやきものとそれ以外のやきものとの二種類しかありません。
その他の区分はすべて不要なものです。
「土を自ら採取している」だけで誉められ、人間が人間であるが為の行為である「作為」や、必要不可欠ないち通過点である「単なる再現」を咎められ、「独創」と称した、どう見ても無理のある出来損ないを連発してはまた誉められ、その後、放置され腐ってゆく気の毒な作者は、「素直な良い子」なのではなく「単なるアホ」です。
悪いことは言いません。現世の残念なメディアや、アホな評論家の言うことを気にするヒマがあるなら、ひたすら「現物」から学ぶことです。
歴代の現物においては幸いなことに、この国はとても豊富な「師」に恵まれているのです。
「他人の作品をみると、それに影響されて自分らしさが無くなる」と言う者は、もとよりその程度の「自分」なのであるから、諦めて転職でも考えた方がよいと思います。その発想でも通用する職種が他にあれば、ですが。
また、こういった者に限って常に他人の評価を気にし、それに影響されまくっているので、前述のような輩に影響されるのです。
本当のオリジナリティーは、当の本人が自己認識できるものではありません。
たとえこれを他人から指摘されても、それは他者の認識なのです。
「オリジナリティー」は「個性」と違って、相対化された時初めて成立するものです。
更にはそれが「あるがまま」では、そのほとんどは実に不具合でまた、たいへん悪い意味での無責任な垂れ流しとなります。
人間の営みは即ち作為です。
「無我の境地」は究極の作為でしょう。
良質の作為こそが人間の価値である、と心底思います。