このコーナー「やきものの常識は疑いやきものを信じよ!」は、近代以降、雰囲気や夢想あるいは「トンネルに幽霊がいる」といった類いの、どちらかといえば善良な部類のア二ミズム、または単なる迂闊にて語られ続け今や常識と化した、やきものにまつわる如何にも尤もらしい話をいろいろと疑ってみた結果、「それでもやきものは美しい!!」と宗教裁判をも恐れず言い切った先人に敬意を表したものです。
したがって、いかなる反論があろうとも私は知りません。姉妹コーナー(なぜこの手の話は例えば都市提携などでも、兄弟ではなく姉妹なのでしょう)である「やきものの常識は疑え!」(いつも命令調ですみません)では、雲霞のごとく押し寄せる反論を期待していたのですが、現在まで好評はいただいても反論は全くいただけず、とても寂しかったので今回は知りません。
また、本稿は乳幼児への読み聞かせにはさほどの実害はないと思われますが、その結果どのような大人になったとしても当方ではなく「やきものの精」のせいです。その場合、絵本のように添付の画像を見せて下さい。その小さい方が画像に興味を持たれるようでしたら、お連れ下されば実際に現物に触れていただきたいと思います。
尚、この欄に登場するやきものはすべて、売り物ではありません。
また最後に、本稿は単にいろいろなやきものをご覧いただく目的によるものであり、これといって他意はまったくありません。閲覧の結果、著しい嫌悪感を覚えられたとしても「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式にやきものまで嫌いにならないでいただけることを、やきもの共々心より祈っております。

12. 井戸の盃

 

11. 井戸盃  15世紀  径10.0㎝高さ4.3㎝

 

 

酒盃は小型の茶碗ではありません。

 

茶碗の小型として作られたものは、酒盃ではなく「茶碗のフィギュア」です。

それはそれで、ひとつの器種として存在することに何の問題もありませんが、両者を混同しないことです。酒盃は酒盃、フィギュアはフィギュアなので、「ぐいのみは茶碗の小型」などと乱暴な総括をしてはいけません。

もちろんフィギュアといえども材質や製法は同じやきものですから、「本物」の酒盃と同じように酒は呑めます。フィギュアのゴジラは家を壊したりはしません。

茶碗には茶碗、酒盃には酒盃特有のバランスがあることからその内容を異にするだけのことで、一見しただけでは盃もフィギュアもよく似た姿をしている場合も多々ありますので、そのようなことにべつだん違和感も感じない者が「どちらでも同じではないか」と言ったところで誰も文句は言いません。

ですが、やはり「内容」が異なるということは明らかに別のものであるので、両者を混同したり勘違いなどをしないことが、優れた酒盃を生む地盤としては肝要です。本来は現代の作者さんたちが茶碗由来の酒盃を作る際、酒盃へアレンジできる資質と能力が強く求められるべきものなのです。

 

前置きが長くなりましたが、今回紹介するものは「井戸盃」といっても差し障りのないものかと思います。これはとても珍しいことです。

なぜこのようなまわりくどい言い回しになるのかと言えば、著名なやきもの本や古美術店などで出て来る“井戸盃”は、「ふつうの堅手」に貫入やカイラギが出ている、というだけのものがほぼ全て(文字通りです)で、本当の井戸であることはまず無いのが現実だからです(徳利も同じで、「茶碗」はまず論外です)。

「本当の井戸」の定義は案外簡単で(井戸に限ったことではありませんが)、もととなる「井戸茶碗」と同一作者が、それと同じシリーズとの意図をもって同じ素材で作ったものを指します。「手が同じ」などとも言われます。著名なところでの典型例では「此世の香炉(根津美術館蔵)」などがありますが、現存数は多くはありません。「井戸も広義では堅手に属する」という通説は「ちょっと違う」のですが、長くなるので端折って述べれば「制作理由とそれに伴う素地の選択の違い」です。本当にこれはずいぶん大きな違いなのです。

 

そのように言えば必ず「そんなことがなぜわかる!証拠は?」という人がいますが、ヒヨコの雄雌を見分けたり、ショパンのソナタを聴いてピアニストが誰であるか判ったりすることは、その気がない人にはできなくとも実際にできる者はいくらでもいるわけで、それと同じことにすぎません。こういうことが極めて当たり前と認証されないところも、やきもの業界が発展途上のまま長期低迷している原因のひとつだと思っています。何とかしなくてはなりません。誰でも道で配偶者などに出逢ったならば、たとえ少々の厚化粧を施していたとしても、前頭葉に余程の損傷でもない限りそれと判別できるのではないかと思います。

 

話が逸れるところでした。この盃を「井戸」とするのはまず、「手」が同じであるのと、喜左衛門などの井戸茶碗と作成行程で同じ動きをしていて、素地と釉の材質が同じであり、またその流れでの状態のまま「盃」(実際には日本の酒を呑むためではなく薬草酒などに使われたことと思われますが、便宜上そう呼びます)の用途を意図した成形を行なっていることに拠ります。

 

個人的に、とりわけ井戸盃に関しては「茶碗の小型」のもので酒を呑みたいとはまず絶対に思わないので、そうではない「本当の井戸盃」の姿とはこのようなものなのだと感じさせてくれる有難い盃なのです。

 

酒盃はやはり、“腐っても酒盃”です。