やきものにはいろいろな名前が付いています。
茶碗、酒盃、などは用途によるもの、扁壺、片口、高坏などは形状を表したもの、向附、水滴、花入などは使用法を説明したもの(向こうに附ける、水を滴らす、花を入れる)、そして徳利は一見?ですが、酒の出る音の擬音の当て字であろうといわれています。たぶんそうなのでしょう。
また、誤解されやすい名称としては馬上盃などがあります。馬上盃というのは高坏のことで、「高い高台を掴み、馬の上で酒を呑むための盃」などといわれていて、話としてはそのほうが面白いのかとは思うのですが残念ながらそうではなく、ここでいう「馬」とは「台」のことです。ひと昔前までは脚立などの足場台などのことを「馬」と呼ばれていました(現在でもあると思います)。つまり馬(台)の上に盃が乗っかっているので馬上盃なのです。やきものの本などでは今も上記の誤説があたりまえに載っていますのでご注意下さい(「やきものの本」で注意が必要な記述はもちろんこれには留まらず、かなり少なめに見積もって三分の二程度はひとまず疑ってみることをお勧めします)。
さてところで「明らかにヘン」であるのだけれども、多くの人が何の違和感も抱くことなく口にしていることが実に不気味な名称として、「菓子鉢」「一輪挿し」があります。
これらの言葉は構造こそ茶碗、酒盃や花入などと同様なのですが、なぜこれほどまでに強烈な違和感が溢れ出ているのでしょうか。聞き流したとしても何となく薄汚れた気配感を纏っています。
「菓子鉢」と呼ばれているものですが、これはただの鉢です。「一輪挿し」はただの瓶です。つまり「鉢」「瓶」でよいわけです。
ですが、どう考えたところで何にでも使える鉢を「あなた!これには菓子を盛りなさい」、花入れ以外にもいろいろ使え花が八輪以上は入る瓶を「一輪ですよ一輪!」という、まるで「その鉢に菓子以外のものを盛ったり、そこにある瓶に花を二輪以上挿したりしてもべつにまったくかまいませんよ・・・ところでそういえば、あなたには幼稚園に通う可愛い子供さんがいましたよね。明日もぜひ元気で無事に帰って来られることを祈っていますね♡」などと言われているのとまるで同質としか思えない悍ましい名称がなぜこれらには付けられなければならなかったのでしょうか。
ですがここから発散される違和感は、どうやら脅迫を目的にするものでもなさそうです。ではこの名称から発する、余計なお世話を超越する下卑たニュアンスの源はどこにあるのでしょうか。
こういえば、「それは茶碗や酒盃でも同じであろう」と思われるかもしれませんが、ここで述べていることは趣旨が別のものです。ただの皿を平茶碗や酒盃と箱書きして売りつけようとするのは質の悪い業者の賤しさで、これは誰がみてもおかしなものです(使用者が転用するぶんには「見立て」なので問題ありません)。
ですが「菓子鉢」や「一輪挿し」には、一見こういったあからさまな賤しさとは異なる陰湿な背景の気配感が漂っています。
そのもとは近代以降、茶の湯が家元制度を維持するため舎弟の“客層”を広げ、結果は予想通り婦女子の「お稽古ごと」に成り下がったため、このような名称は、やきものを含む諸道具などにはほとんど興味のない「お茶の先生」や「お稽古に通うひとたち」に手っ取り早く売りつけるために生まれたことが、立ち眩みを覚えるほど極度に出来の悪い警察標語のようなキャッチコピーとなったと予測できます。“組織的子供ダマし”が見え隠れしているわけです。
作者が「いざ菓子鉢を作るのだ!」と頑張ってみたところで、どうやっても出来るものはただの鉢です。茶碗や酒盃のように「無さそうで有りそうで無さそうでやはり有る」みたいな、その用途ならではの特色は「菓子鉢」にはありません。菓子を入れれば菓子鉢、漬物を入れれば漬物鉢なのです。逆にいえば鉢状の器でさえあれば菓子を盛ることができます。「菓子が盛られた鉢」が「菓子鉢」の正体です。
また、作者が「そうだ一輪挿しを作ろう!」といろいろ工夫してみたところで、買って帰って酒を入れれば徳利、花を一輪入れれば一輪挿しですが七輪入れれば七輪挿しです。「ならば絶対に一輪しか入らないように」と口径を極端に狭めたとしても水滴に使えます。逆に言えばどのような器であろうと花を一輪挿せば、たとえそれが三石甕であっても「花が一輪挿された器」で、それが「一輪挿し」の正体です。
鉢、瓶もしくは花入でよいのです。いずれにせよ菓子鉢、一輪挿しなどという器種は本来存在しません。
だんだん「へりくつ」めいてきましたので説明はこれくらいで止めておきます。
ですがそれでも、他はともかく「菓子鉢」「一輪挿し」という名に限っていえば、屁理屈、余計なお世話、強制、生理的不快感(これには個人差があります)などをすべて含み、器の可能性や見立ての想像力をも潰しにかかろうとする、器文化の敵といえる不徳にして不適切な呼称であることに変わりはありません。私事ですみませんが、これらは吐き気を催すほど耐え難い言葉なので、箱書きなどにそう記されている場合、私はサンドペーパーで消去しています。「箱書き憎けりゃ物まで憎い」となってしまうかも知れないからです。なにしろこの国は言霊の国なのです。
そういえばひとつ忘れていました。
「夏茶碗」などという、それを耳にした者はすべて石と化すような恐ろしい言葉もありました。
なので、こう述べている私はすでに石なのでしょう。吐き気を催す程度であればまだマシなのでした。説明は省きます。皆様に於きましては決してこれを朗読などなさらないように。
また茶会などにお出掛けの際には、「ハイパー耳栓」をぜひご用意下さい。