「織部」というやきものがあります。
デパートの食器売り場や贈答品カタログ、厨房食器から陶芸教室、そして猫の餌入れから「作家もの」と呼ばれる得体の知れないものまで、全国各地津々浦々どこに行ってもそれらしき所には大体置いてあるのが「織部焼」かと思います。
ところでこのように、やきものなどにさほどの興味もない健全な市井の人々でも知っている「織部」とは、いったい何をもって「織部」なのでしょうか。
本稿をご覧下さっている方々が上記の如く“健全な一般の方々”などであれば話は非常に簡単で、「緑のヤツですよ、緑の!」で済むのですが、皆様に於きましては残念ながらそのようなことでは済まされないと認識しておりますので、それでは今回もどうぞお付き合い下さい!・・・・否、いつもよりちょっとだけ長くて更には「けっこうくどい」かもしれませんので、ご面倒であればここでお引き返し下さい。
現在「織部」と呼ばれるやきものを、正しくフルネームに直しますと「古田“織部正”重成(ふるたおりべのかみしげなり1544-1615)が好んだと伝承されるやきもの」、ということになります。(「古田織部がデザインした」などという話を真に受けないようにお願いします。)
ただし古田織部が具体的にどう好んだ、ということを実証する文献資料といえるものは、関東大震災で焼失したという伊賀水指 銘「破れ袋」に付随していた、織部が大野主馬なる人宛ての「これ割れとるけどむちゃエエからアンタにやるわ」の文以外には伝承の不確かな茶会記のみで、織部本人に関する信憑性の高い記載なども極めて少なく、実際のところ京都中京の織部屋敷跡から出た現物くらいしか推測の手立てはないのが現実です。しかしこの中では、桐文が描かれた大振りの四方平鉢の他に一般にいう「織部焼」らしきものはなく、むしろ唐津が多い印象です。またその四方鉢も元屋敷窯(慶長期に青(緑)や黒織部の優品を量産した窯です)盛期のものに比べ決して「優品」とはいえないものです。
さらに元屋敷「織部焼」全盛期の優品が出土したのは、当時「やきもの販売店街」であった京都三条の遺跡の中でもとりわけ「中之町」の遺構から出たものに、現代の“織部のイメージキャラクター”、緑釉に絵付けされた変形向附他の出来の良いものが集中していますが、この中之町遺構操業期は1615~1625年の間と推定されています。つまり古田織部没年から、ということになります。
それならば、現在「織部の優品」といわれるものは、実際に古田織部とはどのような関り合いがあったのでしょうか?
へち曲がっていれば織部、と短絡的に判断してはなりません。「破格」という言葉にもとらわれないことです(破格とはただ形を崩すことではありません)。
これにはまず、やきもの以外の例えば茶室、竹花入や茶杓や裂地、等々の意匠も合わせて観てゆきますとその結果、どうやら「織部好み」のやきものの造形様式の変遷を予測することができます。
順を追って長大な説明をするのは本稿の主旨ではありませんので結論のみを述べます。
「織部焼」とは織部様式という造形様式に添って慶長年間に制作された茶陶のことです。もちろんこのようなことを誰彼構わず話してもムダで、「陶磁研究」といわれている界隈では現在でも「器形を三角に歪ませ云々」「作為の強い造形や箆目あれこれ」などと、言葉を覚えて間もない幼児のような論説表現が未だにまかり通っていて、しかも誰もそれにツッコまないという未開な現況なのです。この分野で「研究」と呼ばれているものの大半は単なる「調査報告」であり、公に仮説を述べることからは逃げ回り、「考察」など一体どこへ行ったのだ?という分野が他にもあるのでしょうか。おそらくその研究対象(やきもののことです)への興味の無さが他分野に比して尋常ではなく・・・・・・・・すみません、いつもの如く話があらぬ方へ逸脱してしまいました。
「いつもの話」になりますが織部に関する文献資料が無かろうが、“現物資料”がこれほど多く現存するうえで「資料が無い」というのはアホバカ(前回よりひとつ「お仲間」が増えました)のたわ言以外の何ものでもなく、むしろ「まぎらわしい文献などに惑わされずに済んでこれ幸い」、と考えるべきです。文献は真物であったとしても筆者の都合で如何ようにでも事実を改竄でき、例えば「古織といふもの手足あはせてはちほんあり」などと織田有楽斎の真筆!にあれば「古田織部は史実によればタコ」となりますが、やきものではそうはいきません。「手を下してしまったことが、もれなくそのまま人工岩石と化したもの」が、手に取ってしかも長期に渡って検証されるわけです。
とは言っても、やきものは読み物ですので、そこから何も読み取ることが出来なければ、それはたちまち“単なるイミテーションの石”か、でなければ“間抜けなオブジェ”に過ぎないものに成り下がります。(尤も、「ダメなもの」の場合は、そのことによって“助かる”のですが・・。)
と、・・・「結論のみを述べる」といいながら、また結論から逸れてきましたので今度はほんとうに結論を述べます。
織部とは、古田織部好みのやきもの特有の造形様式によって作られたやきもののことです。
三角形の組み合わせを基調としていますが、その法則性に共通するものには能面と仏像があり、それらがパトロンを共有することからも、轆轤を現地の陶工が挽き後の成形箆取りを面打ち、あるいは仏師が手掛けた可能性について仮説を立てたとしても、「三角に歪ませた」よりはずいぶんマシな考察ではないでしょうか?(実際には「仮説」以上のものではありますが、ここでその詳細を解説をするにはあまりにも長くなり過ぎるので割愛します)。では具体例を挙げます。
現存が確認できる織部様式のやきもの、つまり「織部」の中でも「これぞ織部!」と言い切れ、かつその完成度が高い作品は、志野茶碗 銘「卯の花墻」「峯の紅葉」「朝日影」他数碗、そして伊賀花入 銘「生爪」「業平」「からたち」など、これらの作者の同時期一連の作品で、つまりは「織部」というやきものの最高傑作は特定作者の「志野と伊賀」である、ということです。これらの織部様式としての高精度と、陶磁造形物としての完成度はまず他に類を見ないもので、織部様式においてもこの二群が圧倒的に卓越しています。同次元の要素を有するものを強いて挙げるならば、当時の備前肩衝茶入の何点かの「部分」に見られるくらいです。
もっとも同時代に作られた、例えば志野であれば他作者の手による後発の「パクリもの」の方が現存数がはるかに多く、これらが現代では「桃山志野」として堂々と通用していますが、これらは実際「歪ませて箆目を入れただけ」の「織部様式風」のものです。古美術商売などであれば、これも止むを得ませんが「研究」と名の付く場でこれらを前者と混同させ同列に語ることは明確な落ち度です。これらは「出来不出来の差」などではなく「構造体の違い」による、まるで「別のもの」なのです。
現在認識されている「織部」の代表とされている元屋敷窯産の緑釉向附その他各種や黒の沓茶碗、美濃伊賀他、備前や唐津、高取内ヶ磯窯などでも織部好みのものが焼かれ ていますが、「織部様式」としての精度は先述のものと比べ、数段「ゆるい」ものです。時系列からみても、これらは先述の「志野と伊賀」の出現を契機にした後発のものであるとみられます。
ならばこれらを本当は何と呼べばよいのでしょうか?
もちろんこれらも「織部」です。ただしこれらは「造形物としては亜流であり一般流通商品としては主流」のものであり、特に「緑のヤツ」はその圧倒的多数により現在ではこれらこそが「織部焼」と呼ばれているわけです。これは何ら不思議なことではありません。
流行に至ってから量産された亜流が、後年「本家」あるいは「元祖」と名乗ったり、宣伝力によって「世間さま」からもそう見做されたりするのは、何もやきものに限ったことではないからです。
いずれにせよ、このような「志野」や「織部」などという名称は、例にもれず当時のものではなく、後代になってからのものですので、本来肝要なのは「何処が何故どのように織部であるのか」ということです。
その際に「織部」の元祖であり本家であるのは「志野」と「伊賀」である、ということを見逃すとせっかく眼の前にある「織部やきもの情報」の多くを取りこぼしてしまいます。
ところで、このたび三度目となりますが・・・織部の「核」は志野と伊賀です。