今回はやきものの重さの話です。
やきものを手に取ったとき、多くの人が“重さ”に反応しそれについて発言します。「重い」「軽い」と言うわけです。次点の“手触り”を大きく引き離しての一番です。
そのやきものの重さですが、人々がそのように口にする「重さ」は、実際には“重量”以外の要素が大きく関わっています。金額のことではなく「手取り」についてです・・・(やはり金額に関わる言葉になってしまいました)。
回りくどくてすみませんでしたが、今回は「手に取った際の重量感」の話です。この“感”がミソです。
以前、実験をしたことがあります。とてもシンプルな実験です。
まずデジタル計測器で全く同じ重量を示す二つの茶碗を用意します。317グラムだとします。姿形や色調、材質や触感などもだいたい同じものだと思ってください。
次にそれを何の情報も与えずに複数の人に手に取ってもらいます。
そこで「さて、どちらが重いでしょう?」、というものです。
結果は、ほぼ全員が同じ方の茶碗を「こちらのほうが重い」と答えます。重量が全く同じ317グラムであるにもかかわらず、です。
この「重量感」こそが、やきものでは非常に重要な「手取り感」の実態です。
ではこの「手取り」の正体は何でしょうか。手取りの重量感は色調や材質によっても左右されますが、この場合では先述のような条件は全て揃えてあります。
これには二つの理由があります。
まずは重量のバランスによる手取り感の違いです。
最も単純な具体例として、茶碗などでは口辺部の厚みに対して腰部の厚みの比率が増すにつれ手取りは重く、逆の場合では軽くなります。
同じ重量であれば、口辺に肉厚があるぶん、それより下部は実際の重量も軽くなります。例えば荷物の入った箱を持ち上げる際、それを同じ空箱の上に置き重ね、下の空箱ごと持ち運べば、重量は更に空箱のぶんが加わっているにもかかわらず、持ち上げる際に随分軽く感じ負担が軽減されます。これが手取りの重量バランスです。
もうひとつは造形によるトリックです。
最も単純な具体例として、茶碗などでは口辺部の厚みに対して腰部の厚みの比率が増すにつれ手取りは重く、逆の場合では軽くなります。
「何だ、まったく同じではないか!」と怒らないで下さい。ここまでは文章にすれば全く同じなのです。間違えたわけではありません。
高台までそのまま薄ければ実際に軽い碗ですが、そのまま腰部を肉厚にすると重量が増します。当たり前です。口辺部が厚作りで、高台までそのまま厚ければ実際に重い碗です。そこで腰部のみを薄くすれば重量は減ります。これもまた当たり前です。
再びここで!全く同じ重量の場合「口が軽く腰が重いもの」と「口が重く腰が軽いもの」とではどちらが重い?という問題ですが、これは人間ではなく茶碗の話です。
先ほどの重量バランスのことは、敢えてここでは除外して下さい。また、「重量が同じならば重さは同じ」などと答えないで下さい。しつこいようですが、これは「手取り感」の話です。
答えは先の場合と同じく、口辺部が薄く腰部が厚い造形のものの方が、その逆のものより手取り感は重くなります。つまり、同じ重量である場合「口が薄い」と重く感じ、「口が厚い」と軽く感じます。
なぜそうなるか?
碗形のものを前にした場合、大方の人が無意識のうちに注意が先ず口辺に偏る傾向にあります。本人の意識のなかでは姿や色や質感であったとしても、です。
口辺部が薄くシャープな造りであれば、厚く鈍重な場合に比べて軽やかな印象を与えます。
その結果、「軽かろう」という先入観がまずは生じます。
口辺の肉厚がまず先入観としてインプットされるわけですが、重そうにみえても腰は軽いので先入観は裏切られ、更にそれに最初の「重量バランス」が加わり手取り感の形成に拍車をかける仕組みです。
このトリックを使えば、茶碗ならば317グラムのものより380グラムのものの方を「軽い」と答えていただける造形も可能です。因みにこれが「同じバランス」であれば、茶碗でこの63グラムという違いは極めて膨大なもので、通常たとえ筋トレをやり過ぎて手の感覚が麻痺した状態でも380グラムのほうが重いと誰もがすぐに判る重量差です。
「この器、思ったより軽い!」という声をよく耳にすることは多く、それが賞賛の対象となっていたりしますが、その仕組みも製法技術もこのように至って簡単なものなのです。「思ったより重い!」と喜ばれることはなぜか少ないのですが、須恵器や北宋のものなどを始め、見かけより重いとたいへん嬉しくなるやきものも沢山あるものです。
ではこれが「袋もの」、つまり徳利や壺などの場合ではいかがでしょうか。
こちらは茶碗の場合とは少々事情が異なります。
壺はここでは手取り感を鑑賞する対象からいったん除外し、手重りのバランスがその姿と同等に重要な徳利(口の酒切れなどは「三の次」です)についてです。
まず、徳利の厚みを上から下まで均一に作るのは、いかにそれを薄手に轆轤挽きしようと、それは「初心者」の所業です。何年経ってもこれをやっている者は、無知あるいはヘタクソもしくはその両方にすぎません。ですが、残念ながらこれは見る側だけではなく、多くの陶芸家たちにも勘違されているところなのです。
そのような徳利は重かろうが軽かろうが、手取り感に何の面白味もなくバランスも悪いうえ、酒を入れて傾けた暁には何とも間の抜けた感じを受けるものです。
徳利は酒が入るといったん重心が下にさがり、酒盃に注ぐ際にはまず真直ぐ持ち上げその後傾けてゆくと口辺部へと移行するわけですが、その間の重心の移動は他器種以上に強調されるものとなります。注ぎ終えて戻す折にも同じことが起こりますが、むしろこの時の方がそれをより強く感じ取られ、この重心の移ろいは徳利を使う醍醐味です。先述のような厚みの均一な徳利ではこの楽しみは半減しますが、それは酒が単に移動しているだけのことで、ペットボトル同様の単調なものとなるからです。
ではバランス良い徳利とするには如何にすればよいかということですが、これは実に簡単なことで、「肩を他よりも肉厚にする」だけで解決する問題です。これは「正しい手順」で轆轤を挽けば何ら難しいことではなく、自ずからそのような構造になります。李朝初期のやたら腰の重い徳利でも肩部が胴部より肉厚になっているものが多く、かなりの重量がある割にはバランス良く抵抗もなく使えるのはその構造によるものです。残念ながら現代の徳利で良いものに出会う機会は少ないものです。
徳利に限らず先ほどの茶碗や食器などでも同様で、轆轤を“紙のように”薄く均一に早く挽けたところで、それだけでは左程たいしたことではありません。ひたすら軽く作ることは容易な技術ですが、脳髄に直接働きかけて来る心地よい重さを持つものを正確に意図して作る技術を持つ作者は少ないものです。
このようなことは、例えば楽器で音階をテンポ通りに音粒を揃えて速く弾くことに過ぎず、練習さえすれば誰でも出来る基礎準備であり、決してそれが音楽ではないのと同じことです。「速弾き」が喜ばれ価値となるヘビメタですら最近は小学生でも上手にこなしますので、超人的な速弾きが出来ても音楽がつまらないと相手にされません。営業職の場合などでも、ひたすら言葉を澱みなく流暢にすらすらと喋り続ければ成約に至る、ということはないと思います。音楽や営業など多くの分野での成功者は、そういったこととは別の更に「重要な」技能を備えますが、そのような人は決して少なくはありません。
ですが、なぜか陶芸界では轆轤を早く薄く挽ければ「名人」などともてはやされ、現代陶芸のレベルを下げる一端を担っています(絵付けなどにも同じことが言えますが、ここでは割愛します)。
手に取っただけで幸福を感じるやきものを作ってくれる作者が現在なかなか見当たらないのは、初期教育環境の悪さの他、驚くほど質の低い陶芸メディア、現代製のものとなると急激に良否の判別力を失う古美術商や美術館学芸員、これらの発する二次情報を実情を知らず真に受けて簡単に惑わされる者、一定レベル以上のものは決して出品されることのないネットオークションが基礎として染み着いたコレクターなどに囲まれ、実際にはやきものにほとんど興味や見識を持たない「陶芸家」の多くが、このような環境に諂いながら「人気作家」などと呼ばれることを恥と感ずることもなく平然と甘んじて省みない現状をみれば仕方がないことなのでしょうか。
と・・・結局いつものような話となってしまいましたが、このようなことを思うたび気が重くなるので、せめて日々使用する茶碗や徳利は、持ち重りの心地よいものに重きをおいて選びたいものです。