13. <企>の「読んでも役に立ちませんよ」 第五回

 

ここはギャラリーボラである。

一般常識あるいは教養を備え現代社会に適応する善良な紳士淑女の皆様、あるいは「やきもの通」の方々ならびに「陶芸村」の住人はこれを読まぬほうがよい。読んでもまったく役に立たぬことは表題の通りであるが、読んで酒や飯が不味くなろうとも米国の大統領が誰になろうとも私の知るところではない。

但し、店を張る上での自殺行為としか思えないこのような駄文に貴重な時間を費やしお目通し下さる奇特な方々には常々、心底より感謝の意を捧ぐ。

 

 

第五回 害抽の話

 

やきものを「抽選」で売ろうとする輩が存在する。

それを買う者にどうのこうの申し上げるつもりは毛頭ないが、やきものは決して抽選で売ってはいけない。

 

嗜好品というものは一般社会において、通常では無理に存在しなくてもよいものだ。

特に「やきもの」などでは何の因果か、わざわざ必需品である衣・食・住を犠牲にし家族にひた隠し、見つかったならば殴る蹴る逃げられるの憂き目に遭い、ボロを纏い、苫屋に住み、やせ細って肋骨が浮き出し、病に臥したならば腕に点滴を刺したまま来店し(この方は実在した・・)、それでも動じることなく平然とその収入や資産をやきものに投入し続ける方々を見ていると、完全にある種の崇高が漂っている。そうまでして、やきものを伴侶に生涯を全うしようという覚悟とその実行動には真底より感動を禁じ得ぬものである。

 

高度成長期以降、“成長”の衰退が物心ともに加速し続ける現在のこの国においてすら、「人気作家さん」が個展などを開くと長蛇の列ができ、中には終日入場すらできず失意の帰路に就くといった話をよく拝聴する。まったくこのような店舗はヒトさまの時間を何だと思っているのか、また「人気作家さんたち」はこのような店に作品を委ねるほど無神経かつ無節操な人格の持ち主であるのか(注・この表現は控え目に過ぎたかもしれない・・)知り得ぬものの、デパートの正月福袋に群がる者相手の商売ではあるまいし、こと「やきもの」に於いては決してお客さんをこのような目に逢わせてはならないと断言する。

その方法ならば幾らでもあるのに、これは単なる職務の放棄、捨て仕事以外の何ものでもない。

これを「公平」などと思っている輩がいるとすれば、これはほんとうに単なる馬か鹿業者であろう(馬と鹿にはこのような者に対するその名の引用を謝罪する)。「やきものは、ただ売れさえすればそれで良いというものなどではない」というのは断じて綺麗ごとなどではない。

 

かつて古美術などでも当然そうであったように、大切な品は本当にそれを必要とする人の順に振り分けるのが「筋中の大筋!」であるのは極めてまっとうな話で「向く者に向く物を向ける」、これこそが「公平」といえる唯一の方法であり、長年やってその方法がわからないなどというのは単なる寝言に過ぎない。よりによって抽選などが如何に不公平かつ下劣の極みかという、なぜその程度のことに気付かないのであろうか?こうなるとやはりある種の崇高さすら漂ってくるが、こちらには全く感動を覚えない。

近年ではいつしかその古美術ですら、SNS(さて何でせうか、の略語か?)などで「抽選で」妙な付加価値を付けようとする輩も存在し、買う側も文句も言わずに一喜一憂しているようだ。一体何ということでせうか!!\(◎o◎)/!(@_@;)INS(◎_◎;)・ 。

 

現在、古老などと安易に呼ばれてしまう往年の優れた古美術商たちが常に嘆くように、「ネットオークション族」が交換会を荒らし、そのバランスが崩れ始めて久しいものだが、そうは言ってもオークションであれば、本当に欲する者が資本主義の原則に従って確実に入手出来る。もっとも、最低落札額も示さず値が行かぬと直前に引っ込める、美術商の風下にも置けぬ「肚の据わらぬクズ野郎(同業にはこの表現でも生ぬるい)」などがたまに存在するが・・・。だが心配しなくとも「〇ふ〇く」などに “ある一定基準以上のもの” が現れることはまず無い。そのような仕組みになっているからである。こういった場所においても「向きの原理」は常に働くものである。

本来、美術やその他ある種の嗜好品は、のように「顧客への向き」を常に認識しておくべきで、それが店としての財産なのである。どのお客に何を向けるか、ということが基本中の基礎技術であり、これが出来ぬ業者は土の選別や窯焚きの出来ないやきもの作者や答弁の出来ない政治家、または丸まる機能を失ったミツオビアルマジロに等しいかそれ以下である。

嗜好品は、少なくともやきものは、個展であろうが常設であろうがいかなるケースにおいても、入荷したならば早速にそれを例えば先述したような最も熱意をもって欲す者に先ずは紹介し振り分けてゆくべきものである。その基準の判断あるいは分別が容易かつ即座に出来ないようでは、誰彼かまわず無闇矢鱈と職務質問を繰り返す無能な新入警察官と同様である。また会期初日にならぬと売らぬ、などと無芸なことをやってそれを「公平」などと浅薄に思い、そこに日々安穏と胡坐をかく馬や鹿業者(馬と鹿には再度、この引用を重ねて謝罪する)は、先述のように多くの者の時間と労を無駄に奪うことにおいて駆け出しの素人テロリストと同様である。

挙句の果てに「抽選ですよ!」などと厚顔無恥に平然とホザく“これぞ民主主義の弊害”やきもの販売店のことを私は「害抽」と呼んでいる。老舗であろうが著名店であろうが、こういった害抽どもが中身スッカラカンの現行陶芸メディアと共にやきものを歴史的に蝕んでゆく元凶である。

早朝に客を並ばせることもなく「抽選のちゅ」もせずに済む方法ならばすでに記したので、業界の健全化のために何方かぜひ試みていただきたい。繰り返すが、これは実に簡単なことである。

面倒ならば代りに「選挙権」でも抽選にすればよかろう。