14. <企>の「読んでも役に立ちませんよ 」 第六回

 

つい先ほど年が明けたようだ。

だがここはギャラリーボラである。正月を機嫌よく安寧に過ごそうと望む者はこれを読まぬほうがよい。仮にこれを読んで酒が不味くなろうが、年賀状のお年玉くじに外れようが、食った蜜柑に黴が生えていようが、先生に言いつけられようが私は一切関与しない。

 

 

第六回   新・やきもの作者を先生呼ばわりする業者について

 

やきもの作者を「先生」と呼んではならない。

やきもの作者の職業は「先生」ではないからである。

一方、やきもの学校や陶芸教室で生計の大半を賄っている者は、個展など開いていたとしても「先生」であり「やきもの作者」という職業ではない。

また、やきもの作者が個展会場で「これはどのような窯で何日間焼きましたか?」「それは穴窯で六日間焚きました」「はあ、そうですか」という会話をお客さんとしても、これは質疑応答か顧客サービス、あるいは双方の時間の無駄なのであり教鞭などではない。

また、そこにいるだけで教えを蒙ることのできる「人格者」ならば、職が何であろうが壁に向かって独座していようが単に髭を生やしニコニコしているに過ぎなかろうが根本的に「先生」なのかも知れぬが、ことやきもの作者に於いては「ふた世代以前」には今となれば懐かしき「変人」「狂人」「人格破綻者」といった、いかにもそれらしき方々がいらっしゃったもので、「その方面を志す者」にとっては先生たり得る人たちであったかもしれないが、呑気な大河ドラマに出てくるお侍さんに憧れる者は多くとも、現に「信長」が同じ自治会などに所属していたならば短期間にその考えを改める者も多いかも知れないし、また残念なことに現代において作者さんたちは皆「いい人」なのである。

「やきもの作者で人格者を大勢知っている」という方がいらっしゃれば、それは臨死体験どころではない稀少体験者であることを自覚し、やきもの界のために語り部として一生を捧げる義務が生ずる。

「絵に描いた餅」ならば、近所の大人に「絵に描いた餅は食えない」と言われれば、その場で餅の絵を描いて食えばよいが、「ウサギのついた餅」を食った者は少なく、月に行った船長の晩年の回想録にすらそれを食った話は出て来ない。

それくらい稀少体験なのである。

 

業者がやきもの作者に対し、業界隠語もしくは見下すなどの理由で「先生」と呼ぶのは勝手であるが、それを少なくともお客の前で決して口にしてはならない。作者がそのお客にとって先生でなければ三文政治家の街頭演説にしか聞こえないし、何より顧客に対し無礼極まりない行為なのである。お客が自ら「先生」と思っているならば勝手にそう呼べばよいが、店の者に押し付けられる筋合いは一切無い。

この国は民主主義国家で基本的人権が尊重されるということになっているらしいので、ならば怒るのは本来こういう時こそであろう。

もしも私がやきもの作者などであり、業者から「先生」呼ばわりされたならば「私は先生ではない」といちいち言うのが面倒臭いので黙っていたとしても、業者の娘にチェロなどを教えてでもいない限り決してその業者の人間性を信用しないであろう。

「作家名」というものは商標なので、有名無名にかかわらず実際には"呼び捨て”が正しい。

シャネル先生と客に向かって言う美容部員やマヌカンはデパートにもまずいないが、やきもの作者や画家を先生呼ばわりしない美術部員はナゴヤダルマガエルより確実に少ない。

それだけ「やきもの」あるいは「美術」には市民権が無い、ということなのであろう。