やきものは、やきものであると同時に、時代背景や国政、民俗といった情報をもつ第一級歴史資料です。
やきものは見たり使ったりしているだけでも充分楽しいものですが、“読み取り”という作業によってそれぞれの時代の活きた情報のみならず、その時代の人間がそこにいるという体験ができます(当人が出て来てそこら中歩き回ったり話しかけてきたりはしませんので、そういうのがお好きな方は他をあたって下さい。「やきものの声が聞こえた」などの場合には、すみやかに医師の診察を受けて下さい)。
やきものを読む、といってもやきものに時おり記されている文字を解読することではありません。それぞれの個体には形状を含む個別の痕跡を有していますので、それを読むわけです。
観察や熟覧はその第一歩です。
「やきものを読む」という作業内容は個体別にそれぞれ異なりますが、概要であれば簡明に述べることができます。
まずは、観察です。物質として顕れているものを具体的に見てゆきます。
次に、「なぜそうしたのか」について考察します。なぜ他の手段ではなく敢えてそうしたのか、それとも工法上の成り行きや偶然によるものなのか?意図によるものであれば他の選択肢としてはどのようなものがあったか、ここでもう一度その中からなぜそれを選んだのかについて予測してみます。例を挙げれば、製土、口辺の処理や見込みの取り方、高台脇の止めどころ、肉厚の重心、使用した道具とその使い方などの他にも、目視で確認できるチェックポイントはけっこうたくさんあります。結果として選択される手段はそれぞれがひとつずつですから、それを選んだ理由を予測してゆくわけです(なかには「断定」できる要素もありますが、ここは「予測」でかまいません)。
その次にすることは、「なぜそうしなければならなかった」のか、つまり「誰がそうさせたのか」についての考察です。
現代陶芸などと違い、かつてやきものは必需品でした(特に「生活」という言葉をひっつける必要はありません)。造形や細部の処理などにはなにかしらの必然がありました。たとえそれが装飾であってもです。つまりそれらがそうなる要素は、主に使用者側にあります。使用や存在の目的によって全体の造形や各部の表現が成されています。(これをいちいち「用の美」などと言う必要はありません。強いて言うならば「用の必然」です)。
この段階で様々な時代背景が出現します。文献資料が補足として使用価値を持つのもこの段階ですが、決して文献を丸呑みしてはいけません。押し並べてやきもの関連の文献の大半は疑ってかかる必要があります。
以上、三段階に分け概要を述べてみましたが、ここで肝要なのはこの順序です。
まず最初はとにかく、余計なことは排除してひたすらモノをみることです。
先入観は有っても無くてもかまいませんが、それに影響されないことです(これが出来ない場合は訓練が必要です)。注意点は、この「読む」という作業中に限って雰囲気や思い入れは極力排除し、やきものは物質と徹して観察して下さい(実際、物質ですが・・)。
次の段階では、まったく好き勝手に想像力を駆使して下さい。何の制約もありません。
第三段階の「誰が」に至って、想像という素材を仮説に仕上げて完成です。繰り返しますが文献を使ってもそれに引っ張られないようにして下さい。文献は補助車に過ぎないので、あとで取り外して下さい。やきものに“知識”が必要なのは“入口と出口”との間である“過程”においてのみです。ここは大切なところです。
1.まずは入口で「モノそのもの」を見る。2.知識という道具と考察という手段を使いその存在背景を知る。3.さあ出口です。再び「モノそのもの」を観る。
という行程です。3.において2.は邪魔なだけですが、2.がなければ3.は貧弱なものとなります。また、「眼が上がる」とは、2.の内容の質と量が増え1.~3.の速度が上がることです。
この方法をもし使ったことのない方は、「だまされたと思って」是非いちど試してみて下さい。桁違いにやきものが楽しくなりますよ。
ただし、何事も度合いが過ぎれば毒になってしまいます。その目安としては、先述の「やきものの声が聞こえる」がその兆候で、更に進行し「土との対話」などが始まった暁には長期入院も必要となってきますので、取り返しのつかないことになる前にすべて「ヤ〇オク」や「〇ルカリ」などで処分する、または早期の受診をおすすめします。