「茶を知らない作者が作る茶碗はなっとらん」のであれば高麗茶碗はどうなる?といった類の初歩以前の話を“現代陶芸村”などに対し発言し続けていても無駄であり、「茶碗がなっとらんのは茶を知らぬせいではなく単に下手クソだからである」という当たり前のこともそろそろ言い飽きてきましたので、ここでは茶碗によくある基本的な常識を疑ってみましょう。
「高台は茶碗の心臓である」
このようなことを、ものの本にはしばしば記されているものですが、決して真に受けないで下さい。
茶碗に大切なのはひとつの全体以外の何ものでもなく、心臓も腎臓もありません。
それでもまだどうしても臓器や身体に譬えたいのであれば、高台は「心臓」などではなく「ケツ」です。
では心臓は何処だ?といえば、それは見込です。
「高台がダメだとその茶碗は台無しである」と下手な駄洒落のようなことを言う人もありますが、このような一見もっともらしいセリフに騙されてはいけません。ダメだといけないのは何も高台に限ったことではなく、各部分のすべてです。こちらも敢えてひとつだけというならば、繰り返しますがそれは見込です。「空間」である見込は器の生命であり正体であるとも言えます(人間にも引用される「見込みがある」は、器の見込が由来の原典です)。
「茶碗の見かた」といった類の書籍には、“見所の要”として「まずは姿を眺め、次にひっくり返して高台を見よ」などと判で押したように記されているものですが、これに従っていれば高台と同等かそれ以上に重要な“高台脇”と“畳付き”を見逃してしまうようで、現にこの部分が全くダメな“現代作家の茶碗”はあまりにも多く、またそういったものが「公募展」などで受賞する昨今です。ここは大切なところなので繰り返しますが、現代製の茶碗の大半は、高台脇や畳付きがまるで「なっとらん」のです(尤もこの場合は大概、見込や高台そのものも公募展の審査員同様「なっとらん」のですが・・)。
全体は各部分によって構成され、その各所は互いに呼応し影響し合うものです。当然そのバランスは命です。
茶碗に「みどころ」などというものは無く「良い茶碗かそうでない茶碗か」がすべてです。
「まずは何処を見ればよいですか?」という質問に対しては「全部」という答え以外は存在しません。茶碗は、等高線付きの日本地図や鉄道時刻表などと違って“特異体質でない人”でも全部見て行ってもたかが知れていますので、ごちゃごちゃ言わずにただひたすら全部見ればよいのです。それで特に何も感じ取れないのであれば、その人にとってはそれでいいのです(「専門家」はそうはいきません)。感知し認識したことのすべてが、その人の一生にとって全世界であるのと同じことです。
茶碗には特に見所や心臓、カエル同様ヘソも無い、という話でしたが、他の器種についても同じことです。「見るべきやきもの」と「それ以外のやきもの」とがあるだけです。この期に及んで「その基準は如何に?」などとは聞かないで下さいね。