16. <企>の「読んでも役に立ちませんよ」第八回

 

いつものことであるが、ここはギャラリーボラである。

<企>が、やきもの商売に関わるなかで徒然に感ずる私見をただ述べるだけのコーナーである。

「ある種のかたがた」がこれを読めば不愉快極まりないこと必至であるので、この時点で止めておいたほうがよい。「ある種のかたがた」とは、一例を挙げるならば「自分はやきものことならば、たくさん持っているのでよく知っている」などというのお考えを持つかたがたのことである。

通読後、酒や食事が不味くなり、家庭内に不穏な空気が漂ったとしても当方では一切責任を持たない。

 

 

第八回 「骨董」嫌い

 

「骨董」という言葉が嫌いである。

自分が、世間でそう呼ばれているものに収入のほとんどをつぎ込んでいるにもかかわらず、その「言葉」が嫌いなのである。

では、それに該当するものは何と呼べばよいのであろうか?

該当するものとは通常、陶磁、仏教美術、書画、金石などで、ある程度然るべき時代を経過したものを指す。それらを一括りにして「骨董」と呼ぶ慣わしのようであるが、この言葉は元々「古いだけで役に立たないもの」、「ガタのきたボロ」という意味なので、これらが高額で売買されその挙句、家督が傾き家族が遁走失踪する者が続出するということはたいへん奇異なことである。つまり“その道”は変人奇人傍若無人の巣窟であるということになる。

「骨董」には、そういったことへの卑屈な自虐が込められているようで嫌いなのである。

こういったことは、何がどうなろうとも堂々とやればよいのだ。

したがって、呼び名もそのように変にまとめて括る必要はなく、やきものであれば「古陶磁」くらいで留めておくのがよい。

 

昭和も半ばになって古美術に該当するものを「骨董」という名で定着させたのは、青山二郎、小林秀雄、秦秀雄、白洲正子といった先人たちであるが、これら先達が著作などで取り上げたものが、僅かにそれらしき似た部分があるだけで、現在では下劣な業者たちに「~好み」として値の吊り上げに悪用されている(たとえそれが「現物」だとしても、“~旧蔵”などと著名人の名を出し値を上げる、つまり他人の褌で相撲を取ろうとする性根が嫌いなのだ。私はそういうとき「それは残念」と答えることにしている)。

 

そのようなわけで個人的には、この業界の“まともな業者”を「古美術商」、“ダメな低劣悪徳業者”を「骨董屋」と呼ぶことにしている。

ダメな「骨董屋」は、上記のように「白洲正子好み」「秦秀雄愛用」他にも、類似のものが掲載された書籍を持ち出す(掲載が「現物」でも同様)、常套句としては「旧家蔵出し」などと、成約前に聞かれてもないのに言いたがるのがその特徴である(但し「成約後」に余談として語ることはその限りではない)。

もっとも、このようなことに左右される買い手がより悪いのだが・・・・、このような文言を並び立てられるということは、買い手が主体性のないバカ者扱いされていることになぜ気付かないのであろうか。
現代陶において作家の賞歴や略歴、人気や知名度などという肩書きに釣られる輩も同様であるが、作者自身が栞に賞歴など、やきものを自腹で買うこともない審査員の評価を並べることもまた、買った客への無礼である。

いつもの話となるが、自らの眼のみで観て決めなかった分量がそっくりそのまま、即ち買値に対し全く収穫のない割合、つまり「損失額」であることは認識しておいて損はない(転売目的のクソ野郎は除く)。