「茶碗」の「碗」はなぜ石偏なのでしょう。
日本では少ないものの石刳りの碗もありますが、やきものは土で出来ているのだから「埦」・・とは思いませんか?実際、木製の漆器の場合には「椀」という字が充てられます。
江戸後期までの一般庶民の日用器には、通常やきものではなく木刳りの椀が使われていました。一部の上流階層のみがやきものの碗や皿鉢を使用していたわけです。当時使われていた日用器のやきものといえば、磁器の伊万里焼(古い箱は二十客用で「今利焼」などと記されています)がシェアの多くを占めていたため、「碗」が石偏でも正当ではあるわけですが、陶器であればやはり「埦」が正しいように思われますが、陶土も元はといえば石が風化したものであろうが、という屁理屈も成り立ちます。
案外見落とされがちの事なのですが、現代陶ではあたりまえの「土モノ」つまり陶器は江戸後期頃まで、壺や甕など貯蔵用器や茶の湯の懐石道具を除けば、国産の日用食器の全体量としてはやはり少ないものです。
当時の瀬戸産の陶器も見かけますが、現存数をみても伊万里のほうが圧倒的に多いものです。
余談ですが、碗の字の右側の旁(つくり)の「宛」は天井で覆われた空間を表します(因みに天井無しの囲いだけの場合では「苑」となります)ので、これをやきものに置き換えると「碗」や「埦」は蓋のついた器、ということになります。現代では少なくなりましたが、江戸後期の碗は伊万里、瀬戸共に、蓋の付いたものが基本でした。
因みに、なぜ「飯茶碗」「湯呑み茶碗」「抹茶茶碗」などと名称に二種の用途が重複するのか?という問題ですが、これは二通りの用途を名称化したものではなくただの“ご愛嬌”なので、「ちゃうやろ!」と突っ込まないであげて下さい。やきもの愛好者以外にとっては全て「ちゃわん」なのです。やきもの好きの皆様の公用語は、この場合では「飯碗」「湯呑」「茶碗」ですね。
続きまして、「盃」という文字は更に説明的です。
“皿にあらず”と書きます。「たとえ平たくとも小皿などではないのですよ、さかづきなのですよ、わかりましたか?」というたいへんメッセージ性の強い文字です。
ですが元はどうであったかといえば、やきものは「坏」、木製のものは「杯」です。さきほどの碗と同じく、偏が素材を説明する形となっていて、どちらも「はい」ですが日本では奈良時代より使われたこの文字で、当時は「つき」と読んでいます。
「坏」は多目的に使われるもので、奈良時代の須恵器には蓋が付いたものも多く遺され、埦くらいの大きさのものが多く、これに足の付いたものが祭祀に使われた「高坏(たかつき)」です。
後代、そのなかでもとりわけ酒に特化したものが「酒」用の「つき」、すなわち「さかづき」となるわけです。ですから盃や坏の振り仮名は「さかづき」であって、「さかずき」だと「酒好き♡」となりますよ。
オマケの余談ですが、「器」を「うつわ」と読ませるのは、「虚(うつ)」からきているという説があります。何も無い虚ろな空間こそがうつわの実体である、というわけです。この説は信憑性が感じられるものです。
紀元前に記された「老子」の中に「埴を挺して以て器を為す。其の無に當りて器の用有り」という一節がありますが、関連はじゅうぶん考えられますね。老子は面白いですよ。
因みに「器」という文字は象形ですが、これを具体的に想定してみれば、漢から唐時代の明器(副葬用器)に見られる大盤上に小碗が並んだもの、もしくは高坏上に複数の蓋坏を配した子持ち土器の可能性も想像できますね。
ところで、本稿がなぜ「やきものの常識は疑え!」なのか?ということなのですが、やきもの関連の本や陶磁研究者といわれる人たちの文章をどれだけみても、こういった単純素朴で根本的な疑問について、これまでまったく触れられていないことの常識を疑う、というオチの雑器・・否、雑学の話でした。