「やきものの使い勝手」といえば、皆様はどういったことを思い浮かべられるでしょうか。
口当たり、手取りの量感と触感、盛り付けの映え加減、注器の切れ、器どうしの取り合わせやすさ、空間との調和、他等々が想起されます。
やきもの作者にこれらを念頭に置いて作成しているかを尋ねてみれば、「器」を主にする作者の大半が「当然である」と答えます。
さて、これはほんとうに「当然のこと」なのでしょうか?
それでは、酒器と食器を例にとって検証してみましょう。
巷でよく耳にする話のひとつに、「酒呑みの作者はぐい呑の勝手をわかっているので、酒を呑まない作者のものより良い」という説があります。
知る限りにおいて、まったくそのような事実や傾向はありません。
大酒呑みでもぐい呑がまったく大したことのない作者も、酒を嗜まなくとも良いぐい呑を作る作者も同じくらいの割合存在するので、どうやらそういった法則や傾向は実際には見られません。実につまらない言葉を使えば「都市伝説」というものです。
呑む酒や呑み方、そして呑む者の嗜好や感覚によってすべて異なり、作者の呑み方を想定して酒盃を作られると、呑む側のそれと余程に一致しない限り、これもまた使い勝手が著しく狭められるに過ぎません。
頻繁に使う例ですみませんが、例えば李朝の酒器は日本の酒に素晴らしく馴染みますが、その作者達は日本の酒など知らず、また「桃山時代の超プレミア立ちぐい呑」の数々も、元はといえばぐい呑ではなく中附けの小向などに作られたものです。ついでに、それらの時代の酒は現代の酒とは異なるものです。
良い酒器を作るための唯一の条件は「良いやきもの」としての酒器を作る作者、ということです。
これは茶碗においても当てはまり、同じく通説のように「良い茶碗が出来るためには長年に渡る茶の稽古が必須」などということはなく、むしろ下手に現代のネズミ講式茶など齧っていると茶碗も悪くなる可能性の方が高いかもしれません。「喜左衛門井戸」や「灰被天目」の作者は茶の湯を長年稽古したのでしょうか?
酒を好きで嗜み酒器に興味のある作者か否かということは、実際には徳利においてこそ顕著となります。
最も多く見かける残念な例は、胴部が頑丈で強さを強調した造りなのに、口辺部をペラペラに薄く仕上げている例です。使う側もそれを気に留めないのか、こういう作者はけっこう居るものです。もちろんこれは「口辺の酒切れに対する配慮」ということなのでしょうが、まずその造形が破綻していることに無配慮であることに加え、口辺を薄く鋭利に作らず重厚で丸くとも切れよく作る方法はいくらでもあります。つまりこの場合、該当作者は「未熟者」と見做されます。更には徳利の場合、垂れた一滴が肩の位置で留まるのがベストで、全く垂れの無いものに比べればまだ三、四滴垂れてくる、いわゆる一般に言われる「切れの悪い」もののほうがマシ、というやきもの好きの傾向も解らない場合、その該当作者は「やきものには興味が無い」と見做されます(これらの該当“人気作家”はけっこう実在します)。
酒切れが良く、手取りが軽やかで、かつ黴なども一切生えない酒器であれば、100均に行けばいくらでも売っています。
次に食器の話です。
手前側を意図して少し低めに作られた器を見かけます。
箸を付けやすい、盛り付けが見えやすい、心理的な解放感などに対する配慮だそうですが、これらは全くもって余計なお世話です。
大概は、少し角度を変えると使いづらく見た目の造形も破綻し、実際に「指定の位置」で使っていても汁分が手前に寄って来るだけで、前記のような予測効果は観念に過ぎず、使う側に有り難味はなく、作り手の親切よりも無神経な媚び諂いが垣間見られるものです。
余程意図して使い難いものに仕上げない限り、大概は使う側の工夫と力量で問題なく使用できるものです。
「食材や盛り付けの活きる食器」などということを、料理の素人である器の作者が考えたところで、料理人にとって邪魔なだけのことです。
「積み重なるか否か」というものを意識して作る、というのもまた余計なお世話です。
この問題は「良いやきものであるか否か」ではなく、単に住宅事情によるものです。
造形によっては重なるものもあればそうでないものもあるという、ただそれだけのことです。
例えば、素晴らしい手鉢や深向附があっても「重ならない」という理由で避けるのは、やきもの好きの選択肢からは遠くかけ離れたものです。1ダースでも余裕でガタつかずに重なる器であれば、100均に行けばいくらでも売っています。
この問題は、家族全員が“やきもの好き”であれば、食器棚を次々と増設することで解決しますが、“そうでない”場合にはまた別の努力が必要となりますので、その上でどうしても「良いやきものであること」を大切にする偉大なる尊敬すべき方々は、「やきものを選ぶか家族を選ぶか」という問題に直面するため、まずは家庭裁判所にご相談下さい。
やきもの好きにとっての「使い勝手の良い器」の条件はただひとつで、それは「良いやきものである」ということです。
やきものが良くなければ、いかに「使い勝手がよく」とも使う以前にまず触れる気になりません。
やきものが良ければ、やきものに興味ない人々からすれば「とんでもなく使い難い」あるいは「使用不能」と感じたとしても、実は非常に使い勝手が良いやきものなのです。「やきものが良い」というのは言葉にすれば至って簡単で、材質感、姿形そして品性が良いということです。
もちろん、見る側にはそれらを感知する力量が問われるものです。重要な注意点としては「好きなやきものが即ち良いやきもの」ではありません。やきものに限ったことではありませんが、「良い」と「好き」とを混同している場合、「良いもの」を判別することは出来ません。
因みに「良いやきもの」の基準値設定は、近現代以前のやきものの歴史に登場するものの大概をひとしきり把握することにより初めて可能となります。(※“大概”であり“全個体”ではないので、そう大したことはありません)。近現代陶芸の元となる近代陶芸の規範もそこにありますが、近現代のものは未だ淘汰を経ていないのでその対象外でかまいません。
とはいっても、これはやきものを製作したり販売したりする者にとっての絶対必須事項であり、資本主義社会において消費者は「好き嫌いだけ」でも一向にかまいません。ですが、業種全体としての品質レベルが低迷したり、家庭裁判所の仕事が増えたりはします。
そのようなわけで、他の分野同様一般受けするものが質の良いものとは限りません。国家共々、一般大衆の質が急速に低下しつつあるこの国では尚更のことです。「売れるもの」や「人気アイテム」もそれだけでは、「商売という都合にとって良いもの」に過ぎません。
どのような分野においても、生産者や紹介者にその派生源諸々への見識が不足していれば、その製品には常に質実にわたり脆弱さが付いて回るものです。本来「良いの基準」さえ明確であれば、たとえ消費者が“親切すぎる”場合にもそれに合わせて「良くないもの」を作らずにすみます。
ですが主客ともに「好き嫌い」で通用するならばそのようなことなどどうでもよいわけなので、とにかく冒頭の例のような「使いやすさ」があり目先表面さえ面白ければ誰でも簡単に生業として成立する、というところが現代陶芸の都合の良さ・・・否、極悪さです。
将棋、スポーツ各種、器楽演奏などでは決してそうはゆきませんが、政治や民営化された旧公社などのように、まるで陶芸か?とすら思える業界もあるようですので、陶芸販売店のように、選挙権も「整理券を発行して抽選」にすればいかがでしょうか。そうすれば国政が “陶芸”より少しはマシになるかも知れない、と思っています。
良いやきものでさえあれば即ち使い勝手も良い、という話でした。