「若手」という言葉があります(「苦手」ではありません)。
ところで、何歳までが若手なのでしょうか?
古来より「四十五十は鼻たれ小僧」などと謂われていますが、相撲取りやフィギュアスケート選手などの場合ではそうも言ってはいられません。そうかといえば、スポーツ選手でも大変そうに見えるプロレスラーは六十過ぎても現役、ということも少なくありません。
音楽演奏家であれば、九歳でカーネギーホールデビューなどすると「若手」とは言われず「天才少年(または少女)」などと呼ばれ、二十歳になっても「ただのひと」にさえなっていなければ、やはり「若手」ではなく「すでに巨匠」などと言われたりもします。
会社にお勤めの方々の場合「四十五十が鼻たれ小僧」であれば、多くの顧客はその鼻たれ小僧と取引をしなければなりません。そしてようやく晴れて鼻たれ小僧期を経過すれば、間もなく定年退職を迎えるというのであれば、これは仕組みとして問題がありそうです。
このように業種によってずいぶん事情は異なるようですが、やきもの作者の場合ではどのような事情となっているのでしょうか。
やきもの作者の場合三十から五十歳代の作者でかなり多くの割合を占めている実情ですので、上記先例に従うならば、ほとんどの現代陶磁は「鼻たれ小僧」が作っていてそれを皆様がお求めになる、という図式となります。「若手の上限」は五十歳までということになりますが、該当する作者さんたちを見ていてもあまり若そうには見えません。
そもそも、「若手」という言葉は誰が何のために使用し、それが誰の何の役に立つものでしょうか。
ふたつの仮説がまず思い浮かびます。
ひとつは、「少々下手クソでも未だ経験が浅いのだから、まあ暫くはおとなしく見守ってやろうか・・」という期待を伴った応援のためで、言われる側は実際に天性の下手クソであっても、何となくモラトリアムを与えられたようで即刻廃業せずに済まされるかもしれませんが、巷の例にもれず「まだまだ若い」うちに晩年を迎えることにもなりますので、この場合には双方にとっての結果の良否はわかりません。
もうひとつは、「経験の長いベテラン」を自負する愛好者や同業者達が、経験の少ない者を差別化することにより自らの立場やアイデンティティーを守ることに固執する、または単に優越感や上から目線などという心理が深層意識下に沈滞し言語化したもので、あらゆる業種や数多くの場面で目にするパターンです。もちろん、その「ベテラン」さんたちの仕事やコレクションにはそういった品性が露見します。
この場合は、年配者が年少者に言う「あなたはまだ若いから何でもできるよ!」などという常套句や、幼児を連れた親に「今がいちばん可愛い時ですね♡」という暴言と同様(言われたほうも「そうなのですよ♡」などと、子に対して失礼極まりない応答がやはり常套で、幼児は案外それを聞いて理解し「ヘソ曲がり」になったり、予言に従い「可愛くなく」なったりします)、その心底に潜む醜悪な僻み根性が垣間見えるものです。
「若者」という言葉の多用も同じです(そのような種族は実存しません)。尤もこれらの場合では、当の本人達にはその認識が無いのが始末の悪い特徴です。
いずれにせよこの「若手」という言葉は、男女平等が異様に喧しい現代においても未だ平然と使われる「女流~」などという差別用語と同じく、あるいは精神の未成熟な者が「大人」という言葉を習慣的に多用するのとたいして変わらず、言う側にも言われる側にも、共に何の意味も無く役にも立たない言葉であることに違いはなさそうです。
「茶碗を作るのは五十過ぎてから」などと無茶を言う人もいるようですが、名だたる茶碗を輩出した桃山時代や李朝初期であれば、その年齢まで生きている人はそう多くはなく、また特に何の根拠があるわけではありませんが、かの時代の陶工が志野や井戸の名碗を生み出したのは、彼らが「若手」であった頃だと感じています。
価格を含め、購入の選定に必要な条件はその作品の出来栄えのみです。
若手、巨匠、人気、有名、女流などの各種冠詞は転売屋以外には全くの蛇足ですが、それに惑わされる人々が少なくないので転売屋も存在するわけです。
業者も買い手も共に、多くが自らの眼で値踏みできないのでそのような無駄な区分が存在し、「有名作家」が晩年になり作品が悪くなっても大幅値上げして罷り通る、という事態が常となるわけです。
「若手」だから値段を抑えなければならない、などということは本来は一切ありません。修行中の作者の卵(他に気の利いた言い方はないのか?)さん達には、ぜひ「初登場ぐい呑十萬円!」を目指す気概を持っていただきたいものです。
最近「成人」が、政治家の都合により二十歳から十八歳に引き下げられたそうです。
それでも “お酒は二十歳になってから”だそうです。
国家にとっての「脱若手」は何歳になってからなのでしょうか?