「高台は茶碗の心臓である」とやきものの本に書いてありました。
高台はやきものの心臓などではありません。有っても無くても茶碗として機能するからです。
また、見所のひとつではありますが、一番の見所ではありません。見所の筆頭は「見込み」です。見込みは器の生命であると同時に、「うつわ」とは見込みのことでもあります。
それはともかくとして、見込みが駄目な茶碗はダメな茶碗です。
茶の点てやすさ、広い狭い、ザラつきの有無などの話ではありません。それは「使い勝手」のはなしであって、使い勝手が良いから良い見込みであるわけではありません。
「相が良い」のが良い見込みの条件です。見込みの相が悪いのが駄目な茶碗だということです。ここが少々人間と異なるところですね。人相が良くてもダメな人はいますし、またその逆もあります。
茶碗の場合、高台の他に手取り、口当たり、頃合い、熱伝導の具合そしてその姿など、できれば良くあって欲しいポイントはたくさんあるのですが、見込みの相に限っては、やきものの成否が決まる焼き成り以上にその茶碗の成否を支配するのです。
さてここにきて、私ならばこうツッコみます。
「茶碗以外だとどうなのだ」
器物はすべてそうなのだ、と思わず答えそうになりましたが少し考えてみます。
徳利はどうでしょうか。徳利の内側は通常、「見込み」とはいいません。ただ私は勝手に「徳利の見込み」と見ている部分があります。さてどこでしょうか?
注ぐとき、酒の見え始めるところから口の末端までの間の部分です。
片口の場合、話はもっとややこしくなります。
特に碗なりの片口などであれば、口を除けば[碗]であるので茶碗と同じことであろう・・・・というのは、これが違うのです。片口の見込みは、「口」の入り口から出口までです。
徳利でもそうですが、これは決して「こじつけ」や「屁理屈」などではありません。「積年の実感」です。さらにもうひとつあると思います。
「相とは何なのだ」
これは各自が確信をもって決めて下さい。「確信をもって」です。
では少々無理があるかも知れませんが、ここで食物の容器に限定して「見込みの定義」を試みます。
「食物の入る位置から器を出るまでの間、使用者にとって最も大切となる空間」
ここでは「空間であること」と、日常使い古されている「大切」の本来の意味が大切です。
人間に対しても「見込みがある」などというのは、必然性や興味による詳細な観察の結果としての各々の確信なのでしょう。
「部屋」が柱や壁や天井そのものではなく、それらに仕切られた空間のことであるように、「器」は素材に囲まれた空(うつ)の部分が「うつわ」です。
良い見込みは見込んだ甲斐のあるものですが、見込まなければただの容器です。物体と空間とが入れ替わるわけです。
この状態を「見込みがない」と言います。