格闘技というものがあります。殴ったり蹴ったりします。
闘争本能は、ヒトも含めて存在する動物の最深層にあるもののひとつです。
芸術と呼ばれているものもあります。
これを定義づけるとすれば、どうなるのでしょうか。
「喜怒哀楽」と、実におおまかに分類されるヒトのこころの動きを何かしらの形に変換する作業、としておきます。
喜怒哀楽も、やはり同じく人の最深層部がその源泉です。
これは、そういったものに関わる話です。
相撲の「張り手」や、ボクシングの「パンチ」は、その職を実行する手段のひとつです。
「芸術」にも実行手段はいろいろとあります。音を奏でる、図を描く、文章を書く、自らの動作を示す、などです。
これらの出どころは喜怒哀楽か、それと同じ層にあるものです。
なかでも「負」の要素の含有量が多いほうが優秀な素材です。そのまま放置しておくと、実に都合の悪いもののことです。闘争本能とも同類です。
こういうものと本気で関わろうとすれば、それなりのリスクが付いてまわります。いま流行りの安全安心などは早々に諦めておいた方が得策です。ストレスや発狂は、ここの詰めが甘いのです。
ここからが本題です。
相撲やボクシングで「張り手」や「パンチ」を受けて、「傷つくじゃないか、人の痛みがわからないのか!」とは素人でも言いません。それを客に見せてなんぼ、だからです。
芸術の実行手段に「パンチ」や「張り手」はあまり使われませんが、その過程においてそれ以上のダメージに直面し続ける日常を送るのが普通です。「居間」も「寝室」も自らの深層だからです。
格闘技に関わる者には「受け身」のトレーニングは欠かせません。パンチを受けても倒れるわけにはいかないのと、ケガもするほうが悪く、ヘタをすれば死ぬからです。
このような格闘技での身体に関することは、芸術行為においての「心」に関わることにそのまま当てはまります。
例をあげると、「ストレス」がストレスとなった時点で、ハードパンチをもろに受けたのと同じことです。
ストレスと呼ばれているものは芸術行為にとって(ほんとうは「芸術のみならず人間生活にとって」と言いたいところですが)第一級の資源です。が、そのままでは使えません。それを素材に変換する必要があります。そのためには変換装置を構築しなければなりません。もちろん自分の中に、です。これは訓練によって修得する技術です。
この作業には労力も時間も膨大にかかるものですが(日々の点検作業も必要です)出来ないでは済みません。できなければ吹っ飛ばされてケガをするだけのことです。
なにもそんな面倒なことをしなくても問題ないよ、と言っている人にほんとうに問題がなかった例は、たぶん無いと思います。(「知らぬが仏」ならば、たくさん見かけます。)
本当は幼児教育に組み込むべき必須課題だと思うのですが、この国が滅ぶまでまず無理でしょう。
話がそれてしまいましたが、「他人に傷つけられた」と文句を言っている者は、少なくとも芸術行為には向いていない、という話でした。