やきものに関わるなかで、「労働時間」ということについて考えてみます。
いきなりアホくさくなりました。労働ということばが間抜けに響くのです。
労働の対義語は何でしょうか。少なくとも休息ではありません。
消費、と言いたいところですが、私は「生産」だと思っています。
生産の対義語は消費でよいと思いますが、「労働という考え方」が時間を消費するので労働と消費は同義語で、その対義語が生産なのです。ややこしくてすみません。
「過重労働」とはどのような労働のことなのでしょうか。
「労」とか「過重」などとその当人が感ずる、本来は不必要な労働のことです。
本来必要な労働でありながらそう感ずる場合は「怠慢」か「不向き」のいずれかなので、転職するかクビになるかが正当だと思われます。まったく同量の任務を、2時間で過重と感じる者もいれば48時間休みなしで続行してもまだ不足と思う者もいる、ということです。
しかし本当の問題はそこではありません。
問題は国家ぐるみでその基準を[怠け者仕様]に設定していて、さらに近年その傾向は加速し続けていることです。「やる気の無い者」を保護し、「やる気のある者」の足をひっぱる政策を次々と強要してくるのは本当に恐ろしいことです。
投票権を年齢制限のみで無条件に与えると、このようになる国民性であるのは実に悲しいことです。
やきものの話に戻ります。
土を焼いたものがやきものですので、その行程が生産活動です。
これは、作者がそれを「労働」と感ずるかどうか、という話です。
「生活必需品」と呼ばれるものに対し、「嗜好品」というものがあります。
これは対義語、と言ってよいかもしれません。嗜好品は、「無ければ無いで済む」ものというわけです。
陶磁器のなかでも「陶芸」と呼ばれているやきものは、一般現代社会において確実に「生活不必要品」です。「陶芸家」と呼ばれている人たちは、不要品製造業者なのです。
世のなかの大半の人々が「いらない」ものを死に物狂いで作り続ける日々を送ることになるわけですから、よほどの物好きでなければやっていられないはずです。
日頃から不思議に思っていることなのですが、その「よほどの物好き」のなかに、「手間がかかる」という発言をする者が少なからずいることです。この場合通常、「手間がかかったから値段を上げたい」と続くわけです。
ここで不思議な点は、本人がわざわざ好きこのんでその「手間」を選択している、つまり手間が制作そのもののことなのですが、そうすると「手間をかかった」という実感は、好きでやりたい行為が存分にできた、ということになります。
好きでやりたいことをするには、多くの場合お金がかかります。支払う側になるわけです。
ならば「手間がかかった」ぶんだけ「値引き」する、という選択肢もあります。
手間がかかったぶん値上げするという発想は、すでに完全に労働モードに入っています。
これは「時給なんぼ」の労働観です。嫌なことを仕方なくやらされている、という気配感が発散されまくっているのです。彼らにとって手間は「残業」なのでしょう。
手間がどうであろうが、そんなものは買う側の知ったことではありません。それは見る者が勝手に判断することです。
「手間観」が上乗せされた作品の購入者は、消費税に加えて残業手当の支払いを強要されているわけです。
「手間ヒマかかった」ことに労働対価を要求する者の作品が、ほぼ例外なく徐々にその魅力を失ってゆくのは、当然の成り行きでしょう。その品性を欠く思考形態は確実に作品に織り込まれてゆくからです。
嗜好品制作者に支払われる労働対価は、制作を続けることができるということです。
仕事の報酬は仕事なのです。
この業務に過重労働というものは存在しません。
先述のように「過重」、「労働」ともに、そう感じたぶんだけ不向きが実証されるだけのことです。
必要なことを必要なだけ、ただひたすら実施しつづける。
何を「必要」と感ずるかが資質で、それを実施するのが才能、そしてそれを合わせたものがこのなりわいに関わる者の全生活だと思っています。