やきものの本を読んでいると、
「当時の名も無き工人が、こうも素晴らしい茶碗を焼き上げたとは…云々」といった言いまわしに、「イヌが棒に当たる」よりかなりの高確率で当たります。
「名も無き」なのは戸籍謄本が現存しないか、著述者が知らないだけのことです。
彼らにとって素晴らしい茶碗を焼き上げるのは、テレビに出るのが「有名人」であるように「名の有る」工人でなければならないのでしょうか。
こうなると、名の有るというのはどういう対象に知られている「名」であるのか?などという質問は不毛です。
因みに「有名人」の有名度数は、その当人の仕事の実質にはほとんど興味が無いか全く知らない他人から、どれだけ多く「その名前だけ」を知られているかによって上昇するものです。
さらに冒頭の「名も無き工人」には、「無心に」「無作為に」などがトッピングされることもあります。
「無心か有心かなぜわかる?!」とか、「それが無作為にみえるか?!」などとツッコむことも、同じように虚しいものです。
なぜわざわざこういう「虚しい」はなしをしているか、ということですが、先人に学ぶということには同じ失敗を繰り返さないことも含まれますが、やきもの界の現在は発想体系に進展が無く、情熱は失われて周辺知識だけが増え続け、その知識も怪しいことこの上ないという状況です。
近年急増するやきもの好きでないやきもの専門家(この場合、作者、業者、研究者を指す)は、作る、売る、論文や報告書を書くことには熱心でも、モノそのものの内容を読み解くことに疎いのには本当に驚かされます。
知識は単なる道具ですので、使う者が不在だとどうにもなりません。しかしその知識が、雰囲気由来のいいかげんなもの、または単なる表面観察や化学分析「止まり」ならば、まるでやきもの関係者です。
だんだんと語彙が怪しくなってきたようなので、おしまいにですが、やきものを観るときは「まず観る」ことです。
言葉はそのあとでお好みに応じてお使い下さい。