やきもの業界の実に奇妙な特異性についての話です。
まずは、やきものに興味を持ち愛好するやきもの作者を見つけることはたいへん困難であるいう事実です。
もうひとつが、お客さんや販売店の多くがそのことに気付かないことです。
お客さん達はやきものを買います。やきものに興味があり愛好するからでしょう。
作者たちの多くはやきものを買いません。やきものに興味がないからでしょう。
やきものを作ることが好きであるのと、やきものが好きであることは別のことです。
やきものを作っているから参考または勉強のために・・といってたまに買ってみたとしても、やはりやきもの愛好者とは別の動機なので、この場合「やきものを買った」うちには入りません。
「やきもの作者なのだから自分で作ればいい」・・なるほど、これが典型的な素人の発想で、別名 “陶芸教室の理論”ともいいます。
因みに、陶芸教室に通う人達の多くもやはりやきものを買いません。陶芸教室さんたちはやきもの店で通常よく見かけますが、やきものの見方で即座にそれとわかるものです。やきものの作り方を見ようとしますが、大概の場合やきものそのものはほぼ見ていません。
やきもの作者の多くも、それとまったく同じ行動類型と気配感を纏っています。つまり彼らの生活は陶芸教室の延長であるということです。
『陶芸家』を名乗る人々のSNS等もそのほとんどが、土や窯焚きがどうしたという類の陶芸教室と同等の内容か自作や展覧会の宣伝に終始し、熱心な愛好者達のように自ら買ったやきものや”知り合いではない”他作者を詳細に紹介したものなどをあまり見かけず、フォローして常にチェックしようという内容のものはこれまでには知りません。これも『陶芸家』達の自らの生業とする対象、つまりやきものに対する関心と意識の低さの一端ですが、現代陶芸という分野が現世でも有数といえるプロアマ間の壁の低さとその境界が曖昧である所以でもあります。
陶芸教室さんでも、やきものを買う習慣のある人の作品はあきらかに他と異なっていたりしますが、『陶芸家』にも同じことがいえます。
当たり前のことですが、やきものに関心の低い作者達の作品は、一見面白くとも必ず早々に飽きてご用済みとなります。「3回の壁」を越えない多くのやきものは、そういう作者達によるものと言っても過言ではないでしょう。遠目に見ればそれらしくとも手に取ると軽薄、つまり「ペラい」わけです。重量目方のことではありません。
不思議かつ奇妙なことは、自腹を切って多くのやきものを見て触れているはずの業者やお客様方の多くが、なぜかそれを見分けることが出来ないということです。
器用であっても興味や愛着が「お客様方以下」の作者の製品が、日々の過酷な労働によって得た金銭を熱意と共にやきものに注ぎ込むお客様方に買われて行くのは実に奇妙な光景です。ドナドナ牛の歌にもなりません。やきもの作者に対し不用意に「器用ですね」というのは蔑視用語となる場合が多いものです。
繰り返しますが、やきもの作者を職としている者は当然のことながら、熱心なお客様方以上にやきものに興味があることが必須条件ですが、それは「作陶への興味」ではなく「やきものそのものへの興味」のことです。
他の分野、例えば野球や将棋あるいは文学や音楽などで、自らの生業の対象が一般客以下の興味であるプロの方はおそらく存在しないでしょう。ですがこれが陶芸となると「興味がお客様以下」の者が大半を占めるということはいったい何事の成せる業なのでしょうか。
料理人さんや酒に関わる人達に、食器や酒器に造詣が深い方が異常に少ない事実も残念なことですが、やきもの作りを生業にしている者がやきものに興味が無いというのは致命的欠陥であり滑稽さすら感じられます。
そういった、やきものに関して素人である『陶芸家』が適当に言うことを鵜呑みにしてそれを顧客に丸投げし、挙句の果てには田舎の骨董屋であればどこにでも並んでいるような写しばかり作る作者を、「古陶磁に真摯に向き合い云々」などと紹介する販売店やメディアに至っては笑いごとでは片付きませんが、それが「陶芸界」の現状です。真っ当な作者であれば、決して関わり合いたくはない界隈だと思います。
先にも触れましたが、「勉強のため」「参考のため」といって買い求める作者ならば時折見かけますが、ここで肝心なのは先述のように「収入の大半を」という部分です。具体的に「大半」の割合は、穏やかなところで”少々熱心なお客様くらいは充分に凌駕する程度”でかまいません(とはいっても、「たいしたもの」はまず出ないヤ〇オクばかり見ていると眼と作品力は確実に下がります)。
勉強や参考になるのは、そうした結果のひとつにすぎず目的ではありません。また、こういった動機では買ったうちに入りません。本や美術館で見たものばかり写す作者の作品からは、精神の貧乏根性が滲み出ています。
「生活が・・」などと平気でたわごとを口にする作者は、何が自らの「生活」か?についての思考力が著しく欠如するか、単にこの生業を大いにナメているかのいずれかでしょうから、やきもの作りを生業にしていること自体何かの間違いであると認識し、”焼けばそれまで”の素材を後世に残すべく即刻廃業し「葉隠」でも読みながら転職先を探すことです。
ならば昔の陶工たちはやきものを買っていたのか?というのも実に尤もなツッコミですが、昔のやきものはその時々の必然性を有した工業製品であり、対して現代の「陶芸」なるものは嗜好品としての付加価値が価格に反映されたものである以上、『陶芸家』などと名乗る者がやきものに興味が無いということは、職業分類上では「詐欺師」ということになります。
余談ですが、ある現役のやきもの作者さんは「当初からやきもの購入に収入の大半をつぎ込んだが、もしそうしていなければ家族もろとも路頭に迷うか死ぬかブタ箱に入るかのいずれかであっただろう」とのことです。古今のやきものやその元となる仏教美術に”軽く家数軒ぶん”は使ったものの「参考のため」に買ったことは一度もないそうですが、本人は当初から現在に至るまでNHKや新聞勧誘員も近寄らない錆びた工事現場用プレハブで生活しているそうなので、やはりこの話の「参考」にはなりませんね・・。
仮に、やきものを買う習慣など無くともやきものに精通している『陶芸家』がいればまだよいのですが、残念ながら現実として、やきものの話をまっとうにできる『陶芸家』や『陶芸の店』は滅多に見かけません。ついでに美術館員や陶芸メディアも然りです。
興味はなくとも(怪しげな)知識だけはあるというのは、「ふた昔前のお茶のオバサンたち」同様に無惨なものです。陶芸関連本や美術館の展覧会図録の文面が、不出来な卒論や営業始末書なみであるのもそのためでしょう。
このようなことは、先述の将棋や野球、音楽、文学等の例ではまず有り得ないことでしょう。相撲取りは現役の間は「ごっつぁんです」くらいしか喋らなくとも、引退すると驚くほど理論的かつ緻密で面白い解説ができます。
興味は常に知識を圧倒的に上回っていなければならず、知識というものは対象に没頭した歳月とともにコケのように自然にへばりついたもの以外は、実践の役にはまるで立たないゴミのようなものです。
問題は、そういった自覚がない作者や販売店が多ければ業界の品質は確実に下がるということであり、現に確実にそのようになっていることです。
「面倒だから日常で徳利を使うことはない」などと平気でのたまう業者が徳利を売っていたりするわけですが、近年では作者やお客さん方の多くもそういった業者とそうでない業者との区別がつかないようです。
また業者の多くも、転売目的の者と真の愛好者との区別もつかず整理券による抽選販売などという実にアホなことをやっています。転売目的者の判別が付かないのは素人といえますが、仮に判った上でやっているとすれば、いかにやきものに愛着が無いからといえども単なるアホや怠慢では事は済まず、必ずや七代の先まで祟られることでしょう。
もちろんそういった業者に平然と納品し取引を続ける作者達の無頓着さも、同じくやきものに対する興味と愛情の欠落の成せる業であるといえ、同じく末代までやきもの神に祟られることでしょう。
様々な分野において、専門家の質と技量ならびに愛好家の熱意と眼力が低下しつつある昨今の現状だとしても、やはりたいへんな虚しさを覚えるものです。
やきものは、たとえ客数や売り上げが減ったとしても、本当にそのやきものを必要とする人(転売目的者は除く)の手に渡るよう工夫することが本来取り扱う者の務めです。
そのようなわけで、現状では一般のお客様方の多くが「現代陶芸」を求める限り、魂の抜けた”スカ”を掴む確率がたいへん高いということです。「知らぬが仏」で良いのであればこれは仕方がないものの、自分よりはるかにやきものに対する興味も造詣も下回る『人気陶芸家』の作品を行列に並んでまで買い求め、作家の出鱈目な説明に感心しているお客様方の存在は不可解を超越して奇跡的であり、神仏の領域に達する慈悲心に満ち溢れた御恵みとしか説明がつきません。これでよいのでしょうか?
もちろん、お客さん達の中にも「眼が黒い」つまり玄人好みの眼力の持ち主や「お子様向け」のものしか買わない人々など種々様々にせよ、同じくやはり収入の多くをやきものに注ぎ込んでいることに変わりありません。
実際としては、「眼の黒い」方々の眼に適うものばかりではこの業界はとうの昔に消滅していると思われますので、業界はこれ幸いとばかり需要の圧倒的に多い「お子様用品」の店が多くを占めるのが現状で、近年その傾向が更に目立ってきましたが、もちろん「おもちゃのやきもの屋さん」や「やきものフィギュア」がいけないわけでは決してありませんが、実際のおもちゃ屋さんに並ぶフィギュア元型製作者の多くは、その対象への造詣や愛情が恐ろしく深いものです。
「高齢化社会」の割には、国民の実質が国政もろとも驚異的な加速度で幼稚化しつつある現代において、やきものの需要も同様に幼稚化に傾くのはどうにも仕方がなく時代に随行し、実際「お子様向け」のものは「王道」のものより圧倒的に多くの集客があります。
これはたとえば音楽においても、クラッシックやジャズよりアイドルやJポップの方が何万倍も収益が上がり、ディズニーランドの入場者数は禅寺の修行者数を遥かに凌駕するのと同じく、この世の摂理であるので仕方がありませんし、これが逆転することは人類が滅亡するまでまず起こり得ないでしょう。
ですから、「最近めっきり眼の黒いお客さんが少なくなったが、商売繁盛を第一とする」場合、少なくともその自覚と認識は携えて堂々と流行に乗り、「おもちゃ屋さん」や「子供用品店」を展開すればよいのです。最終目的が「保身」であるからといって、法に触れさえしなければブタ箱には入らなくてすむわけです。とはいえども、やきものは物理的な性質により後代まで残る確率が高いものなので、”恥の概念”を少しでも矜持する業者や作者ならびに真正のやきもの愛好者への提唱ではありません。
もっとも保身目的であれば、間違っても絶対にこのような一連の文章は書いてはいけません。
いかなる分野においても、自ら関わる対象への興味や愛情が常に知識や技能を上回っていなければ、その仕事はどこまでいっても永遠に、「仏造って魂入れず」ということとなります。
やきものに左程の興味も無い作者が作った「魂の入っていない製品」を、遥かにやきものへ興味も愛着が上回るお客さん達が朝早くから並んでまで熱心に買い求める光景を目にすると、やはりこの国の国政と国民との関係性と同様、いかがわしい団体が「何の罪も無い(神のみぞ知ることですので当然私は知りません)」一般大衆相手に安直な詐欺行為を働いているようにしか見えず、得体の知れない不安と不気味さを覚えるものです。
やきもの病ステージ4の愛好者さんたちも心底呆れ果てるような「やきもの気違・・」否、「まっとうなやきもの作者さん」の出現と、弥勒菩薩の下生とはどちらが先となることでしょう。