私事ですみませんが、やきものに興味を持ち始めて間もない頃、現代陶磁の作品展会場に足を運ぶと、明らかに店員でも客でもなく如何にもその場から浮いたように見える人が居て、展示作品を見ている最中にそういった人たちが後ろから声を掛けて商品説明らしき話をし始めるので、「今見せてもらっている最中なので少し黙っていてもらえませんか・・」と返答したことは一度や二度や三度や四度ではありませんでした。
そうすると今度は店員らしき人が急いでやって来て、「こちらは作家さんですよ」と言うので、「私はやきものを見に来たのであってその作者を見に来たのではないが、そういうことであれば何か不明な点があれば質問するのでそれまで黙って見せてほしい」と極めて真っ当であろう内容の返答をすると、なぜか決まって不快そうな顔をされたものでした。
そして、「不明な点」があった際にその「作家さん」に質問すると、ほとんどの場合更に不明になるだけで、当時を思い返せば「明解で腑に落ちる説明」を体験または目撃した記憶はありません。かわりには「胡散臭さ」というのは実際どういうことか、についてはずいぶん勉強になったものです。
そもそも、やきものや絵画などの展覧会場にはなぜ、作品のみならずその作者までが居るのでしょうか?
ラーメン屋さんやすし屋さんであれば、カウンター越しに”作者さん”が居るのは、迅速に「出来たての作品」を届けるにはそれが最良なので自然であるわけですが、やきもののように向こう一万年ほどはノビたり腐ったりしないものを出来たてを迅速に届けることになるのは、単にその作者が締め切りに間に合いかねた結果にすぎません。
またその逆、つまり画廊側が「作家の工房に頻繁に足を運び、対話を繰り返し~」と公言する店側の者はこの業界では当たり前のようですが、仮に私が作者の立場であれば、このようなことは仕事の邪魔になるだけでたいへん迷惑なことなので是非やめてもらいたいものです。
内気な作者であれば迷惑!とはなかなか言いづらいと思いますので、これは実際にかなり無神経な行為だといえます(仕事を陶芸教室の延長感覚でやっている素人作家であれば、あるいは歓迎されるかもしれませんが、いずれにせよやきものを見るにあたって作者の仕事場を覗く必要はまったく無く、明らかな悪趣味といえます。その昔、絵描きのモーリス・ブラマンクさんという人が、さるご婦人に「絵を描いている現場を見せてほしい」と言われた際、「そりゃ、あんたが子供作ってるところを見せろちゅうのと同じやろ!」と(フランス語で)返したそうですが、まったくその通りで、そのような「現場」を見たがる方も見せる方も、変態の中でもかなり質の悪い部類だと思います。
余談としてですが、店と作者、店と客、客と作者という関係は如何なる場合でも、決して「おともだち」ではありません。仮に元より従来の友人だったとしても、その関係性の中ではまた別です。
作者と店側が企画についての打ち合わせが電話やメールで出来る範疇を越える場合、たとえば現物を介しての話が適切なとき、モノを送るか年に1、2回顔合わせでの打ち合わせで充分間に合うわけですが、作者が個展(グループ展も同)会場に来場するということは、その時点でベストな作品が見やすい状態で並んでいて売る側の者との打ち合わせの場に最適であり、本来はそれが最も真っ当な目的なのです。また会期中はお客さんがいない時間もあり、もしそれがなければ開店前と後でもかまわないのですが、主客ともに信頼関係があるならばお客さんの意見を(タダで!)聴くこともできる利点はあるわけですが、「貸し画廊(週貸しのレンタルスペースのことです)」で開催するのでなければ、個展会場は決して作者が自作品、ましてや作者自身を売る場所ではありません。
そのように展覧会は、”作者の作品を素材として店側の作品”ですので、明らかに作者の裁量で売れた場合では、本来は店側が日当に歩合を付けて支払わなければなりません。工房が作者の仕事場であるように、会場は店側の仕事場であるからです。作者の仕事は、窯から出した作品を手入れして搬入した時点で終了しています。
作者が会場で接客をしても日当を支払わないのであれば、店側は作者の工房で薪割りや土練りなどの労働で等価交換しなければなりませんが(因みに作者の店頭での「販売」は、店の者による「代作」と同等です)、いずれもお互い素人に仕事場をウロチョロされるとたいへん邪魔です。
作者が「在廊」するのは、先述の「売る側との今後の打ち合わせ」の他、お客さんが店の者には答えられない専門技術的なことを尋ねてきた場合のみ回答するためのアシスタントにすぎません。
もっとも、本来お客さんはそういった「技術的なこと」を質問する必要はありません。中途半端な知識は、確実にモノを観る精度の障害となるからです。
どんな窯でどこの土で何日焼くか、という類のことを尋ねても、そこでいう「窯」とは単なる外壁の形状、「土」は1m隣ではすでに異なり、焼成日数と生成品との関係性は未だ幻想である場合が多いので、その類の質問からやきものを観るにあたっての有益な情報を得る確率はかなり低く、経験上、作者の説明は陶芸本(作者に丸投げなので当然であるが)などと同じく実際に参考にならないだけではなく、真に受けているとやきものに対する焦点のズレた先入観が堅固にへばりつくことになります。
技術的なことに興味があるならば、実際に自らやってみるより他に方法はありません。
ですが、これも中途半端にやると”実験考古学”などと同様いい加減な知識が蓄積されてゆくだけで、やはりモノを観る精度が低下するだけのことです。
それでは!!と徹底してやろうものならば、下手をするといつの間にか「陶芸家」などと呼ばれるに至る恐れがありますので、すでにまっとうな仕事に就いている方々は、「世捨て」という動機以外ではやめておいたほうが無難でしょう。
いずれにせよ、店の者がお客さんが来場して間もない時点で「こちらが作家さんです」などと紹介するのは典型的な愚行かつ怠慢です。もしも私が作者の立場であれば、上記のごとく作者がいかに河原モノ兼サービス業者だといえども、そういう店は決して信用しません。店が在廊作者を紹介するのは“いよいよ最後の手段”なのです。
個展会場に作者を「見物に行く」のは、野次馬根性の成せる業なのかもしれませんが、多くの店や作者もそのことに違和感を持たないようなのでそれでよいのでしょう。ですが、やきものに限らず現代の「作家」と呼ばれる人々の多くは、ごく普通の世俗人であるようですので見物しても大して面白くはなく、動物園にでも行って活動期のミツオビアルマジロやカバを一日眺めているほうがぜったいに面白いです。
もういちど要点のみ述べると「作家在廊」というものは、本来であれば作者と店側との次回打ち合わせと、そのついでとして開店時には助手としてのコメント補足がその役割りのすべてなのですが、ほとんどの場合、助手どころか販売主任や一日店長を”交通宿泊費自腹”でやらされるのが現状のようです。
店側が作者に在廊を要請するのであれば、せめてその期間中の宿代くらいは出すのが筋というもので、それすら嫌なのであれば在廊を断ればよいことと思っています。葬式の坊様には「足代」も支払われる慣習だそうですが、宿代も足代も出さないというやきもの店がほとんどのようです。
尤も契約書も何もないこの業界では、作者側が単にそれで良いか、その上でも取引に値する相手だと認識すればそれで成立する関係性ではありますが、他の業界では類例は少ないのではないでしょうか。現行やきものメディアなども先述のように作者に丸投げの挙句、出来上がった本を一冊送って来るだけというのが事実です。
そういう販売店への在廊接客を何の疑問にも感じず、そういう本に掲載されたといって喜ぶやきもの作者は余程のお人好し、正しく言い換えれば相当のアホなのだと思われます。たぶん修行先の師匠のしつけが悪いのか、陶芸の学校に行ってもそういったことを教えてくれないのでしょう(「やきもの」も教えてくれないようですが)。
繰り返しとなりますが、在廊には役割りが別にあり、粗悪な陶芸本へ何かしらの事情で掲載されるのであれば本来は恥を忍ぶべきものです(これは「良い陶芸本」が存在すれば話は別ですが、残念ながら現行にはありません)。
とはいえども、やきものは世間大半の人々の日常にとって邪魔な不燃物にすぎず、ましてや「ぐい呑」に五千円以上出すなど狂気の沙汰以外の何ものでもない社会一般において、元より無縁、公界(くがい)、河原モノといった「反社」の所業である限りこういったことも仕方がないのでしょう。
やきもの好きの皆様へのささやかお願いとしては、作品展の会場でその作者が寄って来ても、追い払う際には石を投げないで下さい。他のお客様や作品に当たると危ないです。
またお相手をして下さる場合でも、不用意にエサは与えないで下さい。エサによってはその後の作品が劣化する例は少なくありません。