短い やきものの常識は疑え!始めました。
「やきものの常識はまず疑え!(「まず」はなかったかも知れない)」では、文が長い(実際には草稿の五、六分の一ほどに省略している・・)、解らん(やきものに興味を持ち始めて間もない方々にも解る内容を、と常に心掛けているが・・)、という方もいらっしゃるそうなので、出来るだけ短く平坦に♡を心掛けてのこの欄です。自己営業妨害といえる本編で、すでに触れた内容もそうでないものもあります。 解りやすいが故に自律神経などに支障をきたし、ご家族に八つ当たりなされても当方は一切責任を負いませんので、その場合の捌け口は劣悪な国政ならびにそれを許容する現代社会にお求め願います。

その25.

 

その25. やきものレトリックにご注意 其の一

 

やきもの関連書籍、作者の話、販売店などで高頻度でお目に掛かる「眉唾話」についての新シリーズです。

 

 

『井戸茶碗は大量に焼かれた庶民の日用雑器であった』

戦前の階層社会が垣間見え、根拠もなく断定されたこの慣用句を真に受ける人が、現在もある一定数存在するようです。

この間違いは、次の極めて簡単な説明で充分です。

「庶民の日用雑器(非常に雑な言葉ですがここでは引用します)」に該当する李朝陶磁器は、墳墓、住居址よりそれこそ大量に”出土”します。市場に無数に流通する李朝陶磁のほぼ全てがそれです。ですが「井戸茶碗が出た」という話はありません。祭器ですら多数出ています(井戸茶碗は「祭器」でもありません。詳細は本編No.64井戸茶碗の常識を疑う、をご覧下さい)。量産どころか現地流通した痕跡も無いということです。この理由ひとつで充分であり、他に特に仮説も必要はありませんが、もうひとつ紹介しておきます。

 

「井戸茶碗」の焼かれた韓国慶尚南道の鎮海郡頭洞里にある窯跡から出る大量の陶片に「井戸茶碗」のものはありません。井戸茶碗と同一作者の、それこそ日頃量産していた何種類かの定番品の陶片が大量に出ています。「井戸茶碗の陶片」として紹介されている数々はこの類です。釉や胎土が同じものも異なるものもありますが、何より決定的なこととして「手」が同じです(このあたりが、なぜか「研究者」を名乗る方々には難解であるようです)。ですがこれらには「井戸茶碗」との明確な差異があります。

それは制作規格の違いであり、具体的には見込と高台まわり、あとは寸法を含む造形バランスです。「井戸茶碗」にはこの窯の”通常ライン”の大量の遺物とはこういった制作意図の異なりが見られ、「発注元の特定用途」による少量注文品と予測できるということです。

 

短く済まそうとしてまたまた予定より長くなってしまいましたが、これは井戸茶碗の実態についてではなく、現在においても絶えず氾濫し続けるやきものレトリック(ここでは間違った情報として)にご注意!という話の初回です。

もちろん、「ただファンタジーとしてやきものを楽しみたい」という方々は健全で大いに推奨できることですが、その場合にはこういった駄文や、近年増々その品質の低下が著しい陶芸関連本などには一切目もくれず、ただひたすら「現物」を前に自らの連想をお楽しみになるのが最良の方法であることを保証します。

 

つづく