5. 窯出しのはなし   池西剛

 

やきもの焼きをやっていると、よく「窯出しが楽しみでしょう」と言われます。

まったくもって僅かたりとも楽しみではありません。

 

幼少の頃の予防注射や歯医者の恐怖と同じく、できれば少しでも先に延ばしたいもので、やらずに済むのであればやりたくはないのです。(個展時の在廊の方がまだマシなくらいです)

しかしこれをやらないことには次の窯詰めも出来ず、とにかく先へと進まないので仕方なくやっています。

 

何が出て来るかは出てのお楽しみ!というのは、窯出しに限ってはまず考えられません。

思い描いた通りのものが出ればあたりまえ、思ったよりずっと良いものが出たならば、狙いからは外れているという失敗に加えて「思い」の貧弱さの実証、予定以下のものであればこれが大定番の失敗、というわけで楽しみな要素など何処にも見当たりません。

 

こう答えると、「では何のためにやきもの焼きをやっているのだ?」という人もいますが、楽しみを得るのを目的にやきもの焼きをやっているわけではありませんので、「窯出し」がいかに恐怖で気が進まなかろうともべつに構わないのです。

けれども、窯を開けた瞬間のあのへたり込むような気分(実際にへたり込むこともあります)は、いつまでたっても馴れることも、そんなものだと達観することもありません。

 

やきもの焼き自体は、楽しくなくとも嫌だと感じたこともまったく無く、ただすることが次々といくらでもあるのでやり続けています。

一連の作業のなかで唯一、気の進まない窯出し(在廊というのもありましたが)にしても、「気に入らない」というネタに困ることがないということは、それを気に入るようにすることが即ち次の仕事であるので、何をやればよいのかが分からないという時間はまず有り得ない、というわけになる皮肉な窯出しなのでした。

 

ただし、「楽しみでしょう」という無責任きわまりない発言もわからなくはありません。

私も、他人の窯出しを見ているのは実に楽しいからです。