「これは何に使うものなのですか?」と、ひとに尋ねてはいけません。
それが、まったく不可解かつ変なものであったとしても、とにかくそれは自分で決めて下さい。自分ならばそれをどう使うか、について考えてみて下さい。
本来の用途などが設定されていたとしても、それはどうでも構いません。
「徳利ですよ」と売っているものを「ああ、徳利ね」と買って帰ったとしても、それは徳利以外の何ものでもなく、それではもったいないと思います。
「これは徳利ですか、それとも一輪挿しですか」との質問は案外多いものです。
その場合、「酒を入れれば徳利、花を挿せば花挿し、‘一輪’でなくてもかまいません。用途はもちろんそれ以外にもありますのでお好きなようにどうぞ」と答えています。
話が逸れますが、私は「菓子鉢」、「一輪挿し」などの呼び方が嫌いです。「雑器」という言葉はさらに大嫌いです。「陶芸」というのもそれに増して・・・・話を戻します。
やきものを使うという行為は、学習の履行ではありません。もっと自発的能動性をもったものです。(「的」や「性」ですみません)
やきものは、何にどう使おうともかまわないのです。「使わない」という使い方もあるにはありますがお勧めはしません。
茶碗でカツ丼を食おうが向附を灰皿に使おうが、茶入でヤクルトを飲もうが本当にそう使いたいと思うのであれば、それは「正しい使い方」です。それを見て不満に思うような作者がいたとすれば、それはダメな作者です。
「やきもの使い」は、一度自発性をもつと連鎖して拡がるものです。楽しいですよ。