明智光秀という戦国武将がいました。
「現代陶芸」の最大功労者です。ですがそのことを評価されている話は聞いたことがありません。なぜでしょうか。
光秀は、1582年、本能寺の変において織田信長を倒しました。信長の茶頭(茶の湯指南)のひとりに千利休がいました。
信長亡き後、天下統一を果たした豊臣秀吉は、利休を茶頭にしました。このことが縁となり、後に利休は秀吉に切腹させられることになりました。
そこで後任となったのが利休の弟子であった古田織部です。織部が好み、世に広まったやきものが、現在「桃山陶芸」とよばれているものです。
近代になり、大名家に所蔵されていたこれらのものが民間に流出することとなりました。当時の財界人や政府高官がこれらを好み、買いもとめました。今では「巨匠」といわれている人達も、この桃山のやきものに憬れ、制作のモチベーションとしました。彼らの作品を扱う業者も現れました。
この、桃山の茶陶中心のものや当時「鑑賞陶器」と呼ばれていた中国陶磁中心のものに加え、やがて「民芸」なる概念も発生し、これらを合わせたものが「陶芸界」とよばれるようになりました。
そのうち、こういった流れに反発する人が使用用途のないやきものを「オブジェ焼き」として発表し、その筋から受けました。
この現象は古今東西どこにでもあって、ユダヤ教に対するキリスト教、仏教における禅宗、茶の湯に対する煎茶、ロックミュージックから発したパンクムーヴメントなどで、これらはカウンターカルチャーと呼ばれます。
そして現代、「陶芸家」といわれる作者さん達は、このいずれかの系列に安直に分類され、「茶陶作家」、「民芸さん」、「オブジェの人」などと呼ばれています。それが気に入らず、そこから意識的に逃れようと努めた結果、ヘンテコな世界に漂うこととなる気の毒な作者さんも後を絶ちません。
とにかく、現代のこういった「陶芸業界」の発生する起縁となったのが、冒頭に述べた明智光秀の本能寺の変であった、ということです。
織田信長は、このとき49歳で亡くなりましたが、1600年代前半まで生存していたならば、先に述べたわけで古田織部が茶頭にならなかった可能性は高く、「桃山のやきもの」は生まれず、ひいては「現代陶芸」も発生しなかった、という話でした。
ちなみに、古田織部に切腹を命じたのは「現代クソ家族主義」や「村びと根性」の生みの親、徳川家康でしたが、織部没後の1615年以降、茶の湯は衰退し、この国のやきものは染付磁器中心となってゆき、桃山様式は織部とともに消えてゆきました。
古田織部は72歳で自刃となりましたが、あと少し生存していれば「桃山陶芸」はいったいどのような展開をみせたのでしょう。
「志野・織部」はよりハイパーなものとなり、黄瀬戸が再登場し、他産地の「織部様式」はより精度を高めて行ったのでしょうか。
それとも歴史の流れの常としてそれらは、流行による惰性に堕落し、取るに足らない大量の「桃山のやきもの」が現代に残り、明智光秀がいなくともやはり「現代陶芸」は生まれなかったのでしょうか。
または、「桃山も民芸」で片付いていたかも知れません。