遺跡発掘、貧乏数寄を経て陶芸家になったので、貧乏でたいしたものはありませんが、小品やぶち割れなど、ご縁があったものが少々手元にあります。名品はどの本にも載っています。しかし意外と無名の捨てられたものが失われた時代を補完すると信じ、考古、美術、そして作り手の観点からそれらをご紹介していきたいと思います。
朝鮮唐津といえば備前や粉引のように徳利のブランド品で、酒器好きの方ならとりあえず持ってみたいというもののようですが、どうも自分の好みからすると掛け分けの釉がいかにもやぼったく、あまり興味があるものではありませんでした。
ある日東京の馴染みの骨董屋が電話をかけてきて、朝鮮唐津の徳利があるというので値段を聞くと、陶片くらいの値段で、それでも値段が高すぎると思っているようでだいぶ弱気です。まあ参考にと買うことに決め、送られてきた品物を見ると成程、全体にべっとりと厚く黒い塗料のようなものが塗られており、共色直しなのか、どこまで残っているかわからない状態でした。
しかしかすかに見えている黒糖のような飴釉、わずかながら首と口のあたりにチラ見している青く窯変した斑釉はまぎれもない桃山の朝鮮唐津のもので、急いで塗料の除去にとりかかりました。これが強者で、シンナーで拭いてもなかなか取れず、煮てもダメ、アセトンでしつこく拭いてやっと塗料の下の部分が姿を見せました。
釉薬は半分以上剥離していますが、手強い形はすべて残っており、生まれたままの状態で伝世していれば立派に名品の仲間入りを果たしていたことでしょう。残念ながら途中で災難に合い、身ぐるみ剥がれたといった風情です。元々斑釉や灰が多い釉薬は珪酸分が多く、時間が経つと剥離しやすいのですが、土中か海揚がりのせいで更にそれが促進されたのでしょう。しかし陶芸をする人間からしてみれば好都合な点もあり、本来なら厚い釉薬に覆われた土の部分が見えているおかげで人体模型を見るように土の造形が観察できます。特に首から口に至る轆轤目は力強く、口は太々とたらこ唇のようです。そのままの状態で残していればいいものを、真っ黒いベトベト塗料で覆ってしまうセンス、全く理解に苦しみますが、そのおかげでこうして資料としては絶好な品物を格安で貧乏陶芸家が手に入れられたわけです。遠目で見たら朝鮮唐津と備前唐津の片身替りといったところで、使おうと思えば実用もできそうです。
この朝鮮唐津という名前、以前から違和感があったのですが、朝鮮半島から伝わったという意味で付けられているとしたら明らかに間違いです。唐時代の四川から出土した陶片には同じ飴釉と白濁釉の掛け分けの技法が使われており、そっくりでした。中国ではよく見る組み合わせですが、同時代以前の韓国では見られないものです。一般に言われている会寧がこうした斑唐津、朝鮮唐津のルーツと言われていますが、唐津と比べると古格がなく、本を見ても李朝後期となっていて、18世紀以降とされる会寧や明川の技法が16世紀の唐津に伝わることは不可能であり、編年が正しければ仮説として唐津からこの技法が逆に朝鮮に行ったとも考えられます。酷似していることから何らかの交流があったことは間違いないと思いますので、これからの研究に期待です。
もともと唐津の起源が朝鮮半島にあったというのは大きな間違いで、器形、技術、窯などを見ても、朝鮮時代の焼き物は文禄・慶長の役以前の唐津や高取・上野そして伊万里とは様式が違うことは明らかです。
この唐津のルーツに関しては機会がありましたら後日お話したいと思います。