前回、少しふれた真贋の問題について、もう少し考えてみましょう。
そもそも、ホンもの、ニセものとは何なのでしょうか。
結論を言います。当てる基準により、それはいかようにでも変わる、ということです。同じ物がホンものはニセものに、ニセものはホンものになります。物そのものが変わるわけではありません。接する人間が変化するだけの話です。それが真贋の正体です。
とは言っても、ここは禅問答のコーナーではないのでやや説明が必要かと思います。(ちなみに「禅問答」は説明をしてはいけません)。
例えばある人が「桃山時代の志野茶碗」を買ってきたとします。一千万円でした。その人にとっては大金であり決して楽な買い物ではなかったのですが「憧れの桃山志野」にやっと出会えたのでかなり頑張ったわけです。それはもう大喜びで毎日茶を何服も飲むにとどまらず一緒に風呂に入ったりして過ごすこと半年ほどたったある日、その人がかねてより目利きと尊敬する人が訪ねて来ました。早速その茶碗を見せます。するとその目利きさんは、ひと目見るなり「ああ、ダメだ」と言いました。江戸末期の「写し」なんだそうです。更に追い打ちをかけるように「桃山の志野茶碗がそんな値段であるわけないだろう。呼び継ぎのものでももっとするぞ、素人がヘタに手を出すからそういうことになるのだ」と言われました。可愛そうな所持者さんは目の前がまっ暗になり、いまだ立ち直れずにいます。と、まあどこにでもあるよくある話なのですが、真贋の問題を考えるうえで、短いながら多くの示唆を含んだ話でもあります。
ところで、なぜこの人は目の前がまっ暗になり立ち直れないほど落ち込まなければならなかったのでしょうか。この人は、何をどう間違ったのでしょう。
まず第一に、この人は茶碗そのものではなく「桃山」にお金を支払ったからです。桃山ではないとわかっていれば、この茶碗にいくら払ったのでしょうか。やはり一千万円払うのであれば、何も落ち込むことはありません。「桃山」でなければそんな大金を出さないばかりか、買うこともなかったのに、というのがその落ち込みの原因のようです。
博物館でも始めようかというわけでもないのに、そんなアホな買い方をするからこういうことになります。たとえそれが本当に「桃山」であったとしても、これは明らかな間違った買い方、ひいてはものの見かたです。この人にとっての真贋は、桃山かどうかということでした。実につまらない識別のしかたです。
この場合のもうひとつの大きな間違いは、他人の発言によってその茶碗に対するスタンスをいとも簡単に変えてしまったことです。たとえ尊敬する目利きといえども、その発言で茶碗が変化したりはしません。言われたその人が変わっただけです。それまで何の疑いもなく愛情を注ぎ信じていたものを、そのものには罪も変化もないにも関わらず勝手に評価を下げる。これは、他人の噂話で人を見る目が変わる馬鹿どもと同じことで、その本人がニセものであった、ということです。
では、こういうことにならなくても済む方法はあるのでしょうか。絶対に騙されない方法などというものが、この世に存在するものでしょうか。
これが、あるのです。それはとても簡単で、物そのものを買えばよいだけです。これで「絶対に」騙されることはありません。(「絶対」などこの世に無い、などと言うアホがいますが「絶対」は少なくとも二つはあります。今この瞬間と、死ぬことです。これが生きている者すべてにとっての「絶対」です。)
つまり、買おうかというものに出会った時、自分はこれにいくらまでなら出すと決め、その値段で収まっていれば買う。これを実行するだけで、この先一生、ものを買うということにおいては誰からも騙されることはありません。それが五億円であろうが二千四百円であろうが、それが本人の見出した価値である以上、たとえどなたに何と言われたところで全く何の関係も無いのです。自らが一千万円付けたものを世間の残り全員が千二百円しか付けないのは、単に自分と世間との価値観の相違にすぎません。何もどうということはないのです。
まあこの場合、もし例外というものがあるとすれば、買ってきたものがタヌキに化ける、というケースくらいでしょう。喩え話ではなく、本物のタヌキ、「狸」です。もし、買った茶碗がタヌキに化けるという人がいれば、是非ともその茶碗もしくはタヌキをお連れいただいて、茶碗とタヌキとに交互に変化する様子を一時間ほど見せていただければ、先述の「絶対」は即座に撤回のうえ謝罪し、更に僅かではありますが見物料として一万五千円お支払いいたします。もっとも本当は、この場合も「騙された」のではなく「事故」なのですが。ついでにいえばこれは、本人が買ったよりも高く売れると思います。
絶対に騙されない方法についてご紹介しましたので、次に「いとも簡単に騙される方法」についてお話しします。
これまたとても簡単で、「外的要因」に影響されればよいだけです。外的要因とは、例えば先述の「桃山」であるとか由緒伝来であったり、稀少性であったり、掘り出し価格であるとかそういったことを念頭に置いて買い物をしていれば、さほど苦もなく騙されることができます。これを増長させる有効な練習法としては、美術館に行けばまずキャプションを眺める、どこかの誰かが「茶碗は高台が命だ」、「作為の無いものが良い」(意味不明・筆者注)などと言っているのを信じ込む、などいろいろあります。
世の中には、こういった人を騙して利益を得ることに天才的な能力を持った人がたくさんいるのです。仮に天才さん達に出会わなくてもこの場合、こういった人達は自滅することの方が多いのです。先述の「桃山志野」の人はこの典型です。仮にこれを売った業者が江戸末期のものを桃山と言ったか書いてあったかしたとしても、それは騙す技術としては稚拙で初歩的なものです。その業者も本当に知らなかった可能性だってあります。つまり良い悪いだけで言うなら、この程度の外的要因に反応する者が100パーセント悪い、と言えます。(先のケースの場合、あとで落ち込まなければ何も悪くはありません。)
これは筆者の自論に過ぎませんが、世の中に騙されるの者がいなければ、騙す者もいない、ということです。騙す騙されるは当人達の内にしか存在せず、一歩外に出れば実在しません。
真贋の問題は、日中の星空のようなものです。