【閲覧上のご注意!】※閲覧前に必ずお読みください。
このコーナー「やきものの常識は疑え!」は、やきものギャラリーおよび美術館の企画、または関連書籍や陶芸作家の言動や作品、あるいは、現代社会において楽しく充実した生活を送るすべを心得ておられ、現在この国は民主主義であると何の疑念も抱かずに受容されている方にとって、必要なことは何一つ書かれていません。閲覧により不快感、吐き気、嘔吐、食欲不振、めまい、ご家族への八つ当たり等の症状があらわれた場合、ただちに閲覧を中止し、当方ではなく医師・薬剤師・唎き酒師・祈禱師などにご相談下さい。乳幼児、小児にこれを読んで聞かせる場合はご家庭の教育方針への抵触にご注意下さい。また、本稿を閲覧しながらの自動車及び機械類の運転操作はしない下さい。

36. 分別無き分別 (ふんべつなきぶんべつ)

 

 

やきものの世界では「新陶」と「古陶」とが、なぜか別の業界です。

「現代陶芸の店」と「古美術店」とに分かれているのです。

やきもの業者が古陶を販売する場合、管轄の警察署から古物の美術品を取り扱う「美術品商」の鑑札を取る必要がありますが、それが原因ではなさそうです。

 

お客さんも同様にやはり別々です。

現代陶しか買わない人は「古いものはようわからん」と言い、ひどい場合は「古美術商に行くと騙される」などと、「外国に行くと銃をぶっ放される」みたいなことをおっしゃります。

一方、古陶磁しか買わない人や業者は、「ケッ!なんや今もんやんけ」などと乱暴なことをおっしゃったり、「今の作者は皆ヘタクソや」と閣議のあとの記者会見で述べられたりしています。

また、たまにどちらも買って下さる方を見かけても、「古いものも買う」「新しいものも買う」と、すでに「も」によって区別されています。

 

これはとても不思議な現象なのですが、誰も何もいいません。こうなると怪奇現象のひとつです。怖い映画をみているようですが現実なのです。

 

なぜこういうことになるのでしょうか?

「さっぱりわからへんわ」と言いたいところですが、我慢して考えてみることにします。

皆様もご一緒にどうぞ。

 

まずは、「いつから現代陶芸なのか」という問題です。

 

明治にドイツより来日し東京職工学校(現、東京工業大学)で教鞭をとったゴットフリート・ワグネルが、化学式による釉の調合など近代窯業を導入しました。それ以降、この国の「伝統産地」は窯業試験場主導のもと、産業革命の流れをうけた窯業あるいは家内制手工業となりますが、「民芸陶器の初代人間国宝」濱田庄司や河合寛次郎もここで学んだ後、「伝統的やきもの」を手掛けています。

その後、桃山の復興やオブジェの出現などを経て現在に至るのですが、これらも明治以降の発想を礎としたものです。いかに「伝統」などと言ったところで、「長石や珪石」、「酸化と還元」などの言葉が出て来る発想がすでに「明治以降」なのです。近代窯業の概念の上で復古を試みたわけです。

これらの手法を「伝統」のなかに導入し、品質を「その当時以上」に向上させた成功例を、現在のところ寡聞にして一例たりとも知りません。

まず最初は「明治以降からが現代陶芸」説でした。が、これにはすでに「近代陶芸」という先客がありました。

 

次には、日用必需品としてのやきものと、世の大半の人々にとっては全く不要品であるやきものとに明確に分かれる昭和の半ば、ある種一部のやきものが「陶芸」と呼ばれはじめた後のこと、というものです。先述の“近代以降の発想のままで”復古を試みた、後の「近現代巨匠さん達の出現」を境とするというものです。

これが一応無難で、かつ受け入れられやすいのかもしれません。いちおう、です。

 

それでは次です。私見がずいぶん入りますので、閲覧をおすすめできるものではありません。

日本のやきものは,江戸初期を境に大きく様相が変わります。

集団による国家支配体制の確立する以前と以後、という背景があります。

現在までの世界各国の優れた文化の多くは、個人を主とする絶対君主制の時代に発生したものです。

その後支配が集団化することによって、文化の質は低下する、または消滅するという例は多いものです。支配する側に文化的素養がなければ、仮にトップの者ひとりにそれが有ったとしても実際に形を成す前に周囲に潰されることでしょう。

現在のこの国では、「文化」が一般大衆の目くらましには役に立つと思われているのか、文化と名の付く不可解な省庁やそれに媚びる現代の河原モノ、また全国各地には「文化会館」という、その大半が何処からどう見ても非文化的な施設などがあるものです。

近世以前にはそのような不特定多数の民衆の機嫌取りのための無意味で無益な施設は無く、特定の必然性をもつ目的を共有する者同士が寄り合った「場」が、後に「文化」と呼ばれることになるものを構築していったのです。それらは現代のような「やらせ」ではありません。河原モノには河原モノの誇り、というものがあったものです。

美術館などでも、暴徒と化した一般大衆のために、本当にそれを必要とする者がとてもまともに観ることもできない状態ですが、これもすでに美術館が観光地と成り果てただけのことで、決して美術が大衆に浸透しているのではありません。ぜひ何とかしなくてはいけない現象なのですが、美術館では動員数を喜ぶくらいが関の山しょう。とても良い方法があるのですが・・・別の機会に述べます。

以上、この区分は、支配階層が文化を生んでいた江戸時代初期より後、支配層が分散しその大半が文化とは無縁者であったため、庶民も含めてそれぞれが勝手に好き放題やり始めた時代のやきものを現代陶芸とするものです。ただし江戸末から明治初あたりのものまでは、技術や技巧の優れたものがまだ有ります。

 

最後にこれは、全く私見以外の何ものでもありません。

私は、人類が道具を使用し始めた「新石器時代」以降、現在この瞬間までを「現代」と思っています。(それ以前は「先代」と呼んでいます・・・)

したがって「縄文土器」から窯出し直後のものまで、一点の例外もなく「現代のやきもの」です。

やきものには「やきもの」という分野がひとつあるだけです。(普段私用の際には「陶芸」という言葉を、青シソと同様にどうしても体が受け付けないので使用しておりません)。

これは私見ながら、すべての皆様に自信をもってお勧めできる区分でした。

 

冒頭に戻ります。

やきものを「現代陶」「古陶磁」などと分別することは、「お役人さん」以外には全く何のメリットもありません。

愛好者やコレクター(この二者はかならずしも同一とは限りません)であれば「それはもったいない!」で済みますが、それが業者、作者、研究者その他関係者などの場合はそうはいきません。

例えば、現代陶を扱う業者や研究者が「古陶磁のことは分からない」などと言う場合、本人が専門だと思っている現代陶のことも、知識はあってもたいがいは分かっていないうえ、分かっていないということも解かっていないことがほとんどです。

また、古陶磁に関わる者たちが現代陶を「いまもん」と言って軽んじ、見ようともしないのは「村びと根性」以外の何ものでもありません。

こういう輩も結局のところ、既存の価値にしがみつきモノそのものを見ていないことがほとんどです。彼らが「良い」という場合、それは「良い値で売れる」ことを指しています。いまだに美術年鑑などの出版物を、何の疑問もなく信仰している百貨店美術とたいしてかわりません。

時代や市場価値を鑑定できることが「やきものがわかる」ということではありません。そういったことは業務上の商品知識の一端にすぎないもので、学習によって誰にでも同じように身につきます。

「モノそのものに興味をもつ」となると、難しいことなど何も無さそうですが、実際にはすんなりとはいかないのは何故でしょう。

 

「現代」とは、それまですべての時代のその時点での端末にすぎません。

やきものは人間の仕事を、その当時とほぼ同等の姿のままで、発生初源のものから現在のものまで通して実際に眼にして手にすることができ、変遷を系統立てて知るための“現物”がだいたい揃っているという極めて稀な分野です。人類の変遷を現物で直截確認できる唯一のものかもしれません。

愛好者の場合であれば、「古い」「新しい」などと分けて見ないことによって、やきものを確実により豊かに楽しむことができます。全部見る必要もありません。

ですがこれが関係者の場合、「この時代のものは知らない」や「この分野は興味ない」では済まないわけです。実際に、専門がどうだ分野がどうした、というほどややこしい分野ではないのです。好き嫌いや食わず嫌いによる見識不足は、単なる怠慢か「モグリ」または「かたわ」です。

こういう輩が、古陶磁を幽霊屋敷に、現代陶を動物園のヤギにしてしまうのです。

 

現代のやきもの特有の“現代性”とは、「有史以来のものすべてに対し責任を持っていること」くらいのものでしょう。責任を「取る」のではなく「持つ」のです(取れません)。やり方はそう難しいものではありません。極めて簡単です。どうやって持つのだ?などと聞くようではすでにダメです。

それができない関係者の「ただの好き勝手」に現代性などは一切存在しません。「独自性」と同じく幼児性との取り違え、または9階までが存在しない10階建てのビルのようなものです。

 

日本の酒を「日本酒(にほんしゅ)」と呼ぶことは愚行です。ワインはワイン、ウイスキーはウイスキー、ビールはビール、そして酒はさけです。

本稿を書いていると、急にそのことを思い出しました。たぶん「しらふ」のせいでしょう。