「織部茶碗」というものがあります。桃山期に茶の湯のために作られたものです。
上から見ると三角形や楕円形の茶碗で、沓形茶碗とも呼ばれています。
これを、やきものなどに何の興味もない人が見ると「ゆがんでいる」「歪んでいる」と言います。
ついでに学芸員や研究家と言われる“専門家”たちも「ゆがんでいる」「歪んでいる」、といいます。
「折鶴」は、手順に従って折り進めてゆくものです。
「彫刻」は、石や木あるいは石膏などを目的とする形に削ってゆくものです。
「自動車」は、平たい鉄板をプレスして車体を成形します。
これらは、元の素材を「ゆがませた」「ひずませた」とは“素人さん”にも“専門家”にも言われません。
なぜ「織部茶碗」はそう言われてしまうのでしょうか?
折鶴は、正方形の折り紙をまずは三角形に折った後、折り進めて「鶴」にしたものです。
そのためには“鶴の折り方の手順”というものがあります。紙をぐしゃぐしゃに丸めたり引っ張ったりして、それらしい形にしたものではありません。
織部茶碗は、轆轤でまず正円形に挽いた後、手を加えて「三角」や「楕円」にしたものです。
そこには織部茶碗の設計というものがあります。轆轤で挽いた半筒状のものを、適当にゆがませたりひずませたりして沓形のようにしたものではありません。
ですが作陶者がその方法を解かっていない場合、それは空き缶を適当に潰しただけのような代物になります。運が良ければ、偶然に面白いものになることもありますが、残念ながら現代製の織部茶碗やその系列のものに、そういった「ぐしゃぐしゃ」なものが非常に多く見受けられますが、それで充分まかり通っているようです。
この設計技法によって作成されたものを、仮に「織部様式」と呼んでおきますが、現存する織部様式の作品のなかで最もその精度が高いものは、志野茶碗で「卯の花墻」という銘の茶碗です。
その他同列のものでは、志野茶碗の数碗、伊賀の花入れと水指、最初期の織部黒、あとは備前のごく一部のものなどがあり、現在一般に「織部」と呼ばれている一連の多くのものは、これらに比べると随分簡略化された、織部様式としては衰退期のものです。「織部」とよばれていないものが本当の織部様式のやきものなのです。ややこしいですね。
因みに織部様式の茶陶は、通説のように古田織部がデザインして作らせたものなどではなく、結果としてそれを古田織部が好んで、広めたものと考えたほうがよいでしょう。
話を戻します。「まる」でなければ「ゆがんでいる」のか、という問題です。
結論を先に述べます。織部様式のやきものは、ゆがんだり歪んだりさせたものではなく、「そういう形のもの」なのです。作成過程の途中のひとコマで「まる」なだけのことです。折紙が「四角」で、プレス前の鉄板が「平ら」なのと同じです。
また、真っ直ぐに伸びた杉や檜は、建材に使用するため枝打ちなどをして人為的に「真っ直ぐに歪めた」ものですが、「歪んでいる」とは言われません。
轆轤で挽かれたやきものは、轆轤の円運動に従って一度は正円形を成し、そのまま仕上がりとするものもあれば、次の行程に移るものもあるわけです。
たとえば織部様式の場合では、側面を押し込んで面を発生させ、さらにそこに箆取りを施すことなどによって面の性質を展開させて組み合わせてゆく造形です。
織部様式の“面の展開”からは様々な意図を読み取ることができます。
「ゆがんだ」「歪んだ」と言っている限り、そこからなにも読み取ることはできません。
織部に限らず、やきものは読み物です。
なかでも織部様式のやきものは、親切にもその意図を全面解説してくれているようなものなので、他のものと比べてもとても解かりやすいものです。
にもかかわらず「ゆがみ」や「偶然」で片付け続けられているのは、あまりにも気の毒なことです。
「ゆがみ」の正体は何でしょう?
ものは観る者の心を映すといいます。