「青田買い」とは、苗を植えて間もない田をまだ稲の実る以前に収穫を見積もって買うことです。
無事に実るとは限らない青田ですから、ずいぶんリスクを伴う先行投資といえます。まだ実績が無くブランド化もしていない「新田」の場合は尚更です。
「青田刈り」とは未だ稲穂が実らぬ青田を刈り取ってしまうことです。
何のために?
もちろん誰も“脳内が彼岸”の領域にでも達しない限り自分が買った田をまだ青いうちに刈り取ったりはしません。「青田刈り」はいつも他人によって行われるものです。
ところで、このやきもの業界における「青田買い」そして「青田刈り」とはどのようなことなのでしょうか。
まずは「青田買い」です。
これは新人を見つけ、「然るべき時間」をかけて育成しその作品を世に出すという前提において金銭と時間とを投資する行ないのことです。
ここで欠かせない必須のものとして、発見能力、資本、情熱、育成能力、根気があります。このうち一つでも欠けるならば「青田」を買ってはいけません。業界の発展のあきらかな妨げとなるからです。青田が途中で枯れたり実りが少なかったりすれば、買った者の責任です。
さて「青田刈り」です。
これは読んで字の如く「青田を刈ること」です。もとより「相の良くない」言葉です。
これは、育成の覚悟(覚悟が必要なのです)もなく、他者の青田の評判が良いと聞けば、夜分早速に出かけて行って田の状態も見ずに(夜なので見えませんが、昼みても通常彼らにはわかりません)さっさと刈り取る者のことです。こういう行いを通常では何と呼ぶのでしょうか?
また、作品のリリースにはそれぞれ「然るべきタイミング」というものがあるのです。そして「今、何をやるべきか」ということが生命線となります。
新人の場合では、なかなかこれは分からないものです。(「ベテラン」であれば分かる、ともかぎりませんが・・・)
青田を刈る者、この場合具体的にいえば「業者」と「メディア」や「公募展」のことですが、かの連中は、作者を「商売ネタ」もしくは「鉄砲玉」としか見做していない者が、確実にその大半を占めていますので(口先で何と言ってもダメです)、青田刈りは通常に横行しているのですが、これこそがこれほどまでにこの「現代陶芸」なる業界の「伸び止まり」の原因の一端を大きく占めているものと思われます。「メディア」「公募展」にいたっては刈るに留まらず、ご丁寧に“枯葉剤”などを散布し多くの畸形を生み出す元締めの役割を十分に果たしています。“自己責任(嫌な言葉です)”といえども、作者たちの中でこれらに対して自己防衛することが出来ている者は、残念ながらほんとうに稀なのです。
これはまさに「花咲か爺さん」が宝を掘り当てた際、発見者であるポチ(犬です)を拝借した挙句、「ガラクタしか掘り当てられなかった」といって殺害したあの「隣の爺さん」そっくりではないですか。もっとも「隣の爺さん」の場合は「花咲か爺さん」に借用許可を取得後ポチを連れ出したわけですが、こちらの場合当然「無許可」なので罪状は重なり、これは他の業界であれば通常まずは「裁判沙汰」となったり、「じゃすらっく」が出て来て金銭を要求されたり、特定の業界などでは「おとしまえ」などというものを要求されたりするところなのです。
こういったケースは「“元”お客さま」が「それではギャラリーでもやってみるか」といった場合において顕著です。資本主義経済において「お客さま」は何をどうしようが自由で、特にこの国では無条件でその名に皇族同様、「さま」なども付き優遇される傾向にありますので、当然「前職」においては全く許されないようなことでも「趣味の世界なのである」と、“お客さま気分”のまま運営なさっていることに原因があるようです。同じ「ギャラリー」でも絵画などであれば、こういった方は半年も経ず消息不明になったりしますが、これもまた「現代陶芸界ならでは」の特徴でしょう。「これ」が多くてすみません。
と、このようなことを述べていると、アフリカの大草原の中でちょうど食事前の「ライオン」などに近寄り「鹿せんべい」を熱心に勧めているような虚無感をおぼえるものです。
では、ここまでお付き合い下さった貴方にクイズです。
このように「現代陶芸」の品質を腐らせ続ける「青田刈り」ですが、実はこれよりも更にタチの悪い「外道の発想」が、この業界ではごく当然のようにに定着しています。 さてそれは何でしょうか?
答えは「囲い込み」です。
「よそのそのギャラリーで個展をしたり、作品を発表したりするな!ウチだけで!!」というあれです。
なるほど、利潤の追求、人材育成、業界の発展のためには「わるい虫」が付かないように努めるのはもっともなことです。
ではこういった場合に、先ずはどうすれば良いのでしょうか?
何ということはありません。そのために「契約」というものがこの社会にあるではないですか。他の業界ではごく当たり前のことです。
作者に「囲い込み」を要求するのであれば、まずその作者と契約書を交わせばよいのです。
その最低必須条件は、その作者が最低まず一年、他で一切仕事を請け負わなくても制作生活ともに成り立つ金額を支払うことです。野球選手や音楽家は複数の球団や事務所に所属などしません。「その筋のかた」たちも同じです。すれば「えらいこと」になります。それぞれに独自の契約方法をもっていますが、いずれも「きっちりとした契約」を交わします。
話を戻しますが、“近代後期は”ともかくとして、現在の「やきもの業界」でそのような店の存在は寡聞にして知りません。もっとも、このような弱小スキマ産業において、上記のような寡占を目的とした契約は現実的ではないものですが。
ところが、契約どころか作品を買取ることすらせずレンタルスペース同様、委託作品を「売れれば“ナカバネ頂戴”方式」で店に並べたうえで上記の如く「ウチだけ要求」をし作者たちに圧力をかけてくる方々も実際にいるわけです。こうなればまさに「外道さん」以外の何者でもありませんが、こちらの方々は先の「元お客さま」ではなく「老舗さん」などに多いようです。 何という業界なのでしょうか・・・・・・・・。
これらの話を合わせ鑑みますと、結局このような問題は当の作者がしっかりさえしていれば何ということのないことなのです。残念ながらその当の作者さんたちの多くは、その職分を続けるために本来とても大切な「発表するべき場を見極める」という能力に致命的欠陥がみとめられる節操の無さを存分に見せつけてくれます。良く言えば「純真無垢」、そうでなければただのアホ、それが不満であれば「大航海時代の再来」です。
それではこのような現状で、結局はいったい何をどうすれば良いのでしょうか?
このような極めて不確かな市場において、一軒の店で出来ることはたかが知れたものです。
極めて閉鎖的な“前時代的ムラびと根性”の溜り場である「現代陶芸界」です。「青田刈る者」「囲い込もうとする者」「しかるべき挨拶すらできない者」「節操の無い作者たち」と充分に役者が揃った無法地帯といえる現代陶芸界ですが、せめてその中でも信頼関係を築くことのできる「同業」を何とか探し、「誰が田を植えたか」などということではなく、寄ってたかって青田を刈らずに済むように計画を共有し、無事稲穂を実らせ収穫する。そのような業者間の連携が必要不可欠です(もちろんそのためにはそれなりの「不文律」あるいは「仁義立て」は必須です)。現代のやきもの業界を真っ当なものにするにはこれをおいて他に方法はまずありません。
・・・ですが、まずはここでそのことが実現する可能性と、中国とアメリカが「兄弟」となる日のどちらが近いかに賭けてみるのも一興の価値は充分にあります。