【閲覧上のご注意!】※閲覧前に必ずお読みください。
このコーナー「やきものの常識は疑え!」は、やきものギャラリーおよび美術館の企画、または関連書籍や陶芸作家の言動や作品、あるいは、現代社会において楽しく充実した生活を送るすべを心得ておられ、現在この国は民主主義であると何の疑念も抱かずに受容されている方にとって、必要なことは何一つ書かれていません。閲覧により不快感、吐き気、嘔吐、食欲不振、めまい、ご家族への八つ当たり等の症状があらわれた場合、ただちに閲覧を中止し、当方ではなく医師・薬剤師・唎き酒師・祈禱師などにご相談下さい。乳幼児、小児にこれを読んで聞かせる場合はご家庭の教育方針への抵触にご注意下さい。また、本稿を閲覧しながらの自動車及び機械類の運転操作はしない下さい。

66. 「普段使いの器」について

 

「日用普段使いの器」とは、どのようなものでしょう?

 

最初に結論ですが、日々の暮らしの中でいつも使用する器が日用普段使いの器です。

そんなもん当たり前だろうが!となりますね。そう、当たり前です。

これは、そこでなぜわざわざこういう話をするに至るのか?という話です。

 

(因みに、「日用雑器」という言葉は私どもでは使用しません。とても雑な言葉だからです。器に関わる者やその愛好者にとって、この言葉は禁句なのです)。

 

「高価なものだから気軽に普段使いにはできない」という人がいます。

やきものは、とにかく「使ってナンボ」です。

百万円で買ったものならば千回使えば一回の使用料が千円ですが、高かったからもったいない・・ということで生涯に四回しか使わなければ一回25万円です。たいへんもったいないことですね。

 

「破損するとたいへんだ!」・・・もちろんです!ぜひとも破損しないように取り扱いましょう。

 

ですが、破損してたいへんなのは買値に関わることではありません。五百円のものであろうが六千万円のものであろうが、自分が気に入って買った以上、同じく大切に使えばよいことです。「五百円のものなら気軽に使える」と言う者は、愛好者ではなく守銭奴です。そういうことを平気で言う著名古美術商などもいるので困ったものです。

お金を払って家に持って帰った後は「愛用する」上ではすべて同等です(転売目的の場合は話がまた別となりますが、本稿はその話ではありません)。

異なるのは、「支払い」を前提とした決断までの過程くらいのものです。

古人の「買ってしまえば値段は関係ない」という言葉は、普通に名言なのです。

 

茶碗、飯碗、徳利、花入などといろいろ名が付いていますが、これらは作ったり売ったりする側の都合に過ぎず、使う側の知ったことでは一切ありません。品名など無視して下さい。

「抹茶茶碗」を買ってきたとしても、飯でもなめこ汁でも抹茶プリンや牛丼など片っ端から使い倒していただくことが、やきものとして本望であり使う者の冥利です。

どうしても品名が気になる方には、それは“只今その器の中に何が入っているか”だけが唯一の「正式名」なので、なめこ汁を飲んでいる際には、箱書きに何と書かれていようと、その品名は「なめこ汁碗」以外の何ものでもありません。別段「茶碗」を「なめこ汁碗」に見立てたのではない、ということです。「見立てが大切」と言えば如何にも尤もらしいものですが、実際は「見立てる」という意識そのものも不要で、とにかくその器に盛りたいものを盛ればそれで良いのです(盛り付けとその器との相性の良し悪しなどは、使う者のレイアウトセンスとして顕著となりますが、これは何でも同様です)。因みに、食器棚や桐箱に収まった「空」の器は、形状が名となり、例えば碗、皿、壺、瓶などで、要するにどうでもよいわけです。

 

「では、何で飯碗より茶碗の方が高いのだ!?」・・・すみません!ごもっともです。

 

この場合には「茶碗」だから高額、とは考えずに、単にそれが「高額なやきもの」だとお考え下さい。

ですから、そのやきものに値段に見合う価値を見出せない場合は、購入すべきではありません。逆に「なぜ飯碗なら安いのだ!?」とも言えるわけで、要はそのやきものが値段に見合う価値が有るか否かがすべてで、最終的にそれを判断するのが「買う」という行為なのです。

 

というわけで、冒頭に戻り本題を繰り返しますと、「普段使いのもの」とは普段使うもののことより他の何でもありません、という話でした。