忖度という言葉は、辞書などでは「他人の心中を推し測ること」となっているせいか、特に近年の政治報道などで誤用されているのをよく見かけますが、忖度は「他者の気持ちを実際に即して読む」というより、「事実を省みず、ろくに検証もせず勝手に感じた印象で決めつける」、つまり“邪推”という意味のほうに近いわけです。
実はこの“忖度”という行為は、近代以降やきものの世界でまさに大活躍の場を得ているようです。
一例を紹介します。
「美など意識せぬ工人が、毎日々無心かつ大量に轆轤を回し続けた無作為であるがゆえの美」
・・・・・見事!といえる域に達した忖度の塊で、忖度に含まれる邪推の一面をたいへんよく顕した典型例といえます。
「アンタのは美意識のカケラも構想も無く、脳ミソも完全スルーして日々惰性で作りまくるだけあって実に良いねえ」と言い放っているわけです。
構想を練り意図や計算を積み重ねた結果、第三者が見てサラリと無心に出来たように見えるものは上位の高等技術で正に“有心の成果”といえるものですが、ハナから「そんなはずはない」と決めつけているわけです。
これは余計なお世話どころではなく、無礼侮辱にして悪質な大忖度といえますが、こういうものを喜んで真に受けてしまう人々は今でも存在します。
どの分野であれ、何となく適当に毎日同じことを繰り返していても良い結果は得られません。
他にも「薪窯で焼くほうが、ガスや電気窯よりたいへんだろう」といったよくある類なども、上記の例より数段穏やかではありますが、やはり事実や根拠を省みない忖度の一種だと思います。
やきもの界隈はこういった忖度の宝庫で、それらが発展の妨げの一因となっているのはいうまでもありません。
見る側作る側ともに、やきものに想像を働かせる場合に必要なのは、忖度ではなく仮説です。