「やきものの見かた」については、これまでに数多くの出版物があります。
では、その「やきものの見かた」について考えてみましょう。
これはそういった場合必ず出て来る、「まず全体を見て、次に高台や土が云々・・」という話ではありません。
見る、という行為は「見」の他、観、鑑、看、診、視、覧などの文字で表記され、それらは例えば、見学、観察、鑑定、看過、診察、視野、熟覧などという単語として使われています。
これをやきものの場合に当て嵌めてみましょう。
出会い頭の第一印象では「見」、そこで興味を覚えたならば次が「視」、更に注意すれば「観」、手に取ってただ眺めるのが「看」、そこで思考を働かせれば再び「観」ならびに「診」、それが何ものであるかについて判断するのは「鑑」、という具合です。
そのように、やきものに多少なりとも興味を覚えれば自然と「観る」なり「看る」なり次の行為へ移行するもので、やきものでは「見る」は、ただ網膜に写ったものの一部を感知しているだけの状態を指しますので、そこに「見かた」などというものは存在しません。
あえて言うならば、「ただぼんやり眺めているだけ」という行為こそが正しい「見かた」であり、それはそれで全く問題ないのですが、何もわざわざ文章にして出版するようなことではありません。
やきものに多少なり興味を覚えた場合、そこからは意識の有無に拘わらず、先述のように観察や熟覧といった、視覚や触覚を通して得た情報の処理という次の行為に移行するもので、ここからは「見る」の次の流れである「読む」という領域となります。
とても大切なことなのですが、やきものは「読み物」なのです。
繰り返しますが、もちろん「ただ眺めるだけ」「ただ使うだけ」というのも何も間違った行為ではありません。ただそこに、「見かた」などという方法論が一切必要ないだけのことです。
したがって、そのような出版物を著すのであれば「やきものの読み方」とすべきですが、その手の本はなぜか例外なく、形や高台の分類、産地、あるいは土がどうのこうの(こちらは大概が出鱈目です)といったことが書かれているだけで、「みかた」についてはどこにも書かれていないのが通例です。それを「見かた」と言ってしまうのであれば「バカが見るブタのケツ」などが、この場合の「見る」に匹敵するということになります。
知識、それも間違っていたり中途半端であったりのそれが興味を上回ることは、やきものに限らず真っ当ではない傾向です。
例えば、茶の湯を修練することと茶の稽古に通い免状を取ることの目的が同じでないように、やきものも、モノそのものより付随する表層情報(窯や土、産地や作者などに関する表面的な情報のことです)の知識集めに興味があるのではなかろうか?と思われる人は少なくありません。現物以上に、基本的に気の利かない陶芸関連の出版物(特に今世紀以降の)やネット情報、あるいは美術館の出鱈目キャプションばかり見ているうちにそうなるのでしょうか。
いずれにしても、興味と知識とのバランスはすべてに於いて肝心要です。
知識は、人間の特質である“認識以降”に至るための道具にすぎないものです。
話を戻します。
「やきものの見かた」とは、「やきものは読み物であるということを認識すること」、という話でした。