「綺麗」と「美しい」との違いとはどのようなものなのでしょうか。
難しいようで簡単、と思えばやはり難しい問題です。そう、問題なのです。
難しいほうはどこまでも難しいので、ここでは簡単なほうを考えてみましょう。
[綺麗]は、その純度が高ければ高いほど[綺麗]です。醜悪な要素は減点の対象になります。
ですが「美しい」となるとそうはいきません。
「醜悪な要素」の働きが不可欠なのです。それが何処にどれだけ配合されているか、で「美」になるか「醜」となるかが決定されるわけです。発酵や調香の例をみてもわかりますが、腐敗や汚物が「美味」や「霊香」を生むのです。
汚いものや不都合なもの、そして疲労やストレスなどに対する耐性の無さが現代社会の特徴だと思っています。これらを有益な資源に変換するための工夫や技術とそういうことが必要だと認識する感性も、同じく現代では滅びつつあるものです。ストレスは「解消」するものではなく「変換」して使用する動力源なのです。
残念なことに、議会制民主主義が体質的に不向きなこの国では、その耐性の無さを体制の都合で(駄洒落ではありません)無反省に保護することを続けてきた結果(特に最近、その傾向は急激に加速しています)確実に国力を落としています。美しいということの実態に不能ともいえる無感覚の者が「美しい国」などという言葉を政治利用しようとする時代です。
ということは、「美しい」という概念はひょっとすれば国力を上げるのではなかろうか、とすら思えてきます。たぶん上げるのでしょう。
「必要醜悪」を正確に識別し、それを道具や素材として自在に使いこなす技能が、現代ではとりわけ必須であるのではないでしょうか。ただし繰り返しますが「醜悪」を醜悪なまま出したのではいけません。必ず「変換」という作業が必要です。
たとえ結果が同じ形となったとしても、です。
これはけっこう労力の要る作業なのですが、でなければブタのケツか「現代美術」になってしまいます。(※注 ここでいう「現代美術」とは、現代の美術のことではなく、当事者達がそう自称しているものを指します。)
「綺麗ごと」、と面と向かって言われることを嫌いながら綺麗ごとばかり口にする者の多い現代において、やきものも例外ではなくそのような傾向が主流となっています。
しかしこのことは、少々の昔にその萌芽は見い出され、徳川期に入って間もなくすでにこの傾向が始まっているのですが、その理由についてはここでは割愛します。
良質の文化と「合議制」や「民意」などというものとはなかなか相容れることが難しいことは、現代を過ごすなかで容易に理解できることです。
この国に、美しいやきものが当たり前のように生産されていたのは元和から寛永の初めまでである、と思っています。綺麗なやきものならば、現代でも「棒に当たる」ほど在ります。
「安全安心」への過剰志向の結果による弊害と、冒頭の「綺麗」「美しい」の違いに対する無感覚の結果としてのやきものの現状とは同類です。
美しいものを受容するには、綺麗なものを楽しむ場合とは違い、好もうがそうでなかろうが相応のリスクとそこから生ずる責任とが付いてまわることになります。
これからは、人工知能(AI)や仮想現実(VR)の時代になるのだそうです。
とても良いことだと思っています。なぜならば「現代」の人類ができるだけ早く滅びてくれるからです。
生物のサイクルを1億年ひと単位で考えたとき、今滅びれば、地球とその生物にはあと46周期ほどの可能性は有るが、そうでなければ「現代」の終焉とともに地球を巻き添えにすることとなると、かなり真剣に感じるのです。
お終いになりますが、こういった話をするとき「もちろんその時には私も命運をともにする」と言う者に対して、それが綺麗ごとであるのかそれとも「美」であるのかを即時判断するということが、やきものを観るにあたってとても大切な基準であることを、私見として添えます。