「たんなる写しにとどまらず」という下りは、やきもの関連の論評に頻出します。
「たんなる写し」とはどういう写しなのか、そもそも写しとは何を写すものなのか、そこに「独自のもの」が加えられた結果、見るも無惨な出来損ないになったとしても(通常そうなっている)「独自」なのだからその方が良いのか、「独自」の正体は何か、またそれにどういった価値があるのか。
そういうことは書かれていません。
では、「姿形ではなく先人の心を写すことだ」といえば一見もっともらしくはあるのですが、それこそ「たんなる人まね」であろうがと思います。「こころ」まで写すのですから。
ものの良し悪しに独自も写しもありません。
あるとすれば商標や特許などの法的な問題だけです。それ以外はまったくどちらでもよいのですが、あえて言えば「たんなる独自」というものが怠慢の最たるものでしょう。放っておけばそのままで、各自が独自なのです。オリジナルならば簡単なことです。
それにしても、個性だオリジナリティーだというものに強迫神経症的に執着する彼の者達は「幼少期の呪い」でも抱えているのでしょうか。
「出る杭は打たれる」ということばがありますが、これに対する解釈が分岐点になのでしょうか。「出る杭にこそなれ!打たれても平然と進むか、あるいは戦え」と現代のこの国の学校や家庭での教育で叩き込まれることは稀です。そのかわりに、実に安直な横並び教育が陰湿な問題の原動力となっています。
結果として、没個性こそ安全安心という風潮が深層に根付き「差し障る」ことを不当に回避する者ほど、個性あるいは独自性などを口にする頻度の高い傾向にあるようです。
結局そうやって遠回しに抑圧され続けた「独自性」の亡霊と化した劣等感やコンプレックスが、強迫的な独自性への憧憬となっているのかもしれません。
しかし残念ながら、それを「バネ」にするにはあまりに低品質で熱処理も適切でない「バネ」なのが、「劣等感の現代性」でもあるようです。
話を冒頭へ戻します。ものを見るときは「写し」「独自」などの、見る者の予備知識でしかない属性で見ない方がいいということです。見る側が知らなければ「これまでになかった新しいもの」、違いがわからなければ「たんなる写し」であるだけのことです。
良いものであるかそれ以外のものであるか、それが全てです。その基準こそが、本来「独自のもの」でなくてはならないものです。
独自性のない結論となりました。