15. <企>の「読んでも役に立ちませんよ」第七回

断わっておくがここはギャラリーボラである。

表題の通りこれを読んでも何の役にも立たないことを約束する。「役に立った」という者がいれば相応の変人であろう。健全な生活を送るまっとうな社会人は、とりわけ幸運なことがあって機嫌の良い日などには決してこれを読まぬほうがよい。忠告は以上である。

 

 

第七回 私的即席市場調査の話

 

インスタグラムというものでは、やきものについての投稿もかなり多くみられる。

読んで役に立つ情報もあるが、見ていてひとつ気になることがある。

特に日本国内のものに言える傾向であるが、いくつかの例外を除く大半が記事の内容とそれ以上にそこに寄せられるコメントがことごとく、毒にも薬にもならず当たり障りもなく無難で表面を装ったものばかりであるところだ。また写真のみで、記事や何らかの情報の無いものは第三者の役には立たず、見ると時間の無駄となる。このことを「インスタベテラン人」にぶつけてみたところ、「インスタに“役に立つ”などということを期待する者が間違っている」と言われた。

たしかに、問題に直面しても見て見ぬふりをし匿名である場合のみ文句を言い、そうでなければ付和雷同の権化と化す現代日本人性がここにも顕著であると言ってしまえばそれまでだが、そのようなものばかりではこの国の文化には何ら寄与することはできない。批判を恐れ議論も出来ず、打たれ弱い民俗性はこの国古来のものでは決してないのである。

試みに、「それ」とわかる批判を記事に少々織り交ぜてみれば、面白いように「フォロー数」がほぼ確実に予測通り一定数減るが、どういう場合にどのような投稿やコメントをしている者が「フォローをやめる」かについて調べることはこの業界に関わる現況の一端を把握でき、ひいてはこれを拡げて民俗調査として行うことによってインスタグラムもけっこう役に立つものだ。民俗学にとっては、使いよう次第でなかなか居ながらにして便利なツールであると思うのだが・・。また、何を書けばどのアカウントが「フォローをやめる」かを競馬のように予測してみるのも一興であろう。

 

そのようなわけで当廊でも昨年より投稿を始めたのだが、インスタだからといってその語源のひとつである“インスタント”に付き合う必要などない。

こういった手段や、またこういう話をすること自体が当然「自己営業妨害」ともなるのはもとより承知の上で、「幅広く多くの人々に好意的に受け入れられる」ことを目指すことは、ことやきものに関しては詐欺行為でなければ、机上の空論、絵に描いた餅、アホのたわ言、単なる無知、自己欺瞞、切腹に値するやきものへの侮辱ならびに背任行為のいずれかに必ず該当するので、何のためにわざわざ“河原モノ業”に従事しているのか、という原点は野垂れ死んでも絶対に譲れない一大事なのだ。

 

話を変えて余談として、当廊のインスタグラムでは現代陶と古陶磁とを織り交ぜて投稿しているのだが、「これ幾らだ?売ってくれ!」と国内外よりDMで問い合わせがあるのはすべて古陶磁の場合のみである。その都度、「当店は現代陶磁の専門店であり、古陶磁はやきものを幅広く知ってもらう目的で紹介しているので非売。そのうち“古陶磁部門”も設けるかも知れないが只今は未定」との旨の返答を繰り返すわけだが、果たしてこの傾向は何なのだ?思わず、頑張れ現代陶!などと叫んでしまうではないか・・・・「比べればわかる」のはたいへん恐ろしいことなのだ。

お客さんたちが作者やその作品に対して極度に甘く(「辛口で厳しい人」と紹介されたので楽しみに会ってみると「超激甘」で拍子抜けという経験は少なくない)、「ともだち」のように接する光景をよく見かける昨今だが、「ともだちのような親子」に憧れた結果未熟児を量産した近年のこの国の縮図を見ているようだ。「ともだちと知り合い」、または「ともだちと種の保存」の区別もつかぬバカどもが国を亡ぼすのである。友人間に「馴れ合い」は禁物である。

私が陶芸村を心底毛嫌いする理由は、単にやきものをナメているからということ以外に、おともだち同志の擁護組合に終始し全体を見ず、やきものは見ての通り否が応でも一万年を経た後にも時代を顕す証拠となることへの責任に一切無頓着にして無感覚な幼児的自己表現の垂れ流しを続けることによる。「自己表現」であれば、その「自己」がどれほどのものかが表現された価値のすべてである。

やきものは、人間の営みの中では最も「末永くそのままの状態で残る」ものなのだ。

 

つづく