このコーナー「やきものの常識は疑いやきものを信じよ!」は、近代以降、雰囲気や夢想あるいは「トンネルに幽霊がいる」といった類いの、どちらかといえば善良な部類のアミニズム、または単なる迂闊にて語られ続け今や常識と化した、やきものにまつわる如何にも尤もらしい話をいろいろと疑ってみた結果、「それでもやきものは美しい!!」と宗教裁判をも恐れず言い切った先人に敬意を表したものです。
したがって、いかなる反論があろうとも私は知りません。姉妹コーナー(なぜこの手の話は例えば都市提携などでも、兄弟ではなく姉妹なのでしょう)である「やきものの常識は疑え!」(いつも命令調ですみません)では、雲霞のごとく押し寄せる反論を期待していたのですが、現在まで好評はいただいても反論は全くいただけず、とても寂しかったので今回は知りません。
また、本稿は乳幼児への読み聞かせにはさほどの実害はないと思われますが、その結果どのような大人になったとしても当方ではなく「やきものの精」のせいです。その場合、絵本のように添付の画像を見せて下さい。その小さい方が画像に興味を持たれるようでしたら、お連れ下されば実際に現物に触れていただきたいと思います。
尚、この欄に登場するやきものはすべて、売り物ではありません。
また最後に、本稿は単にいろいろなやきものをご覧いただく目的によるものであり、これといって他意はまったくありません。閲覧の結果、著しい嫌悪感を覚えられたとしても「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式にやきものまで嫌いにならないでいただけることを、やきもの共々心より祈っております。

4. 須恵器提瓶

 

 

 

 

4. 須恵器提瓶  7世紀 高さ22.8cm胴径17.4cm×11.6cm

 

前回、日本における最初の扁壺は須恵器であった話に触れましたので、その須恵器扁壺をご紹介します。

ただし須恵器の場合、扁壺という形状では呼ばず、提瓶(ひと昔前までは「さげべ」と呼ばれていましたが現在では「ていへい」とそのまま音読させるそうです。こういうところにまで「現代的つまらなさ」が出るようです)という使用の際の状態を想定したものです。ぶらさげて使った、という想定です。

提瓶に関する一説には、初期のものには環状の「耳」が付いていて、それが時代とともに耳は半分の長さとなり、次には「ボタン」となってやがては「耳なし」となる、という耳退化説というものがあり、一見もっともらしいのですが、6世紀前半のものにも「耳なし」があったり、後期である8世紀あたりにも環状の耳があったりするので、時代と共に退化しているのは人間の知恵とヴァイタリティーくらいのものかと思っています。

 

須恵器の用途や、それに伴う形状は7世紀の半ばを境に変化します。時代背景として、それ以前は主力豪族の支配による古墳時代、それ以後は律令制度の布かれた国家体制となります。

古墳時代の須恵器は、副葬品や祭祀器として、その後の律令国家のもとでは租税である「調」として納めるためのものでした。このことから、実用品として使用された確率の高いのは7世紀半ば以降、つまり5世紀前半から始まり(4世紀後半説もありますが)9世紀まで続く須恵器生産の中盤以降のものということとなりますが、上記の説に従えば水筒として腰にぶら提げて野山を駆け巡るために必要な、ぶら提げフックである「耳」が無く、立てておくための「足」も無い提瓶では不便きわまりないもののように思えます。

今回ご紹介している提瓶は6世紀から7世紀前半までのものと推測されるものですが、すでに「耳がボタン」です。

 

抽象的にして曖昧な言いまわしですみませんが、7世紀前半まで、すなわち古墳時代の須恵器の方がそれ以降のものに比べ、成形の精巧さとは別に“製作密度が濃い”ように見えるのです。どちらも、もとより体制による義務としての製作ではあるにせよ、この気配感の違いはその製作目的によるものとの見方は短絡に過ぎるかもしれませんが、とにかくそのように感じます。

須恵器の製作に従事した工人たちが未知の埋葬者の来世を祈ることと、租税として納めた須恵器がその後、誰の何の役に立っているのかを思うことで、生み出される須恵器の間にどのような隔たりがあるのか私には解かりません。税を納めるという行為にも、本来はその納める相手に対しての信頼が必要です。そう思えばやはり人間には「信仰」というものが必要であり、たとえそれが国家であろうが、宗教とよばれているものであろうが、さらには「現代的家族」という利己的で矮小なものであれ、その動機はともかく、歴史を通して「人類も捨てたものじゃない」と思える仕事の礎を支えるのが信仰と祈りであり、それを裏付けるものが信念であると思っています。

(信仰と宗教とを混同しないで下さい。それらはまったく別のものです。信仰は信念とそれによる実行為の個人的持続、これに対し宗教は、信念を強く持続するのは困難であるという一般的個人に対して、組織化した団体がそれを思考や思想、日々の行動規矩までを信仰と組み合わせて「セットで代行サービス」する商売のことです。その組織は「宗教法人」とは限りません。マスメディア、企業、国家などいろいろあります。その結果「良い方向」に進むというわけではありません。)。

 

祈りや信仰というものは、その成果の実証ができるものではありませんが、7世紀前半までに作られた須恵器には、それ以後のものと比較するとそういった気配を感ずるものが多い、という話でした。