8. 二戒ですよ   池西 剛

 

 

 

この稼業を続けていて現在まで、これだけは絶対に片時も忘れてはならないと心掛けていることが二つあります。

 

素材や造形、焼成あるいはやきものそのものに関する探究といったことならば、いかなる製造業であれごく当然のことなので、取り立ててひと様に話すようなことではありません。

ですがこれは、これを忘れれば即座に「おしまい」というものです。

 

まずひとつは、「その水がどこの井戸から汲んできたものか」を忘れない、ということです。

 

これはとても簡明なことですがどういうことかといえば、現在自分に出来る仕事や作品を構成する要素はそれぞれ何処からこから来たものか、つまり「もと」は何かを決して忘れないということです。

 

それは直接または間接に他者から教えられたものであったり、相手が人間以外でも観たり読んだりして学んだことであったりと場合は様々ですが、例えば「この作品は誰のどういった意見やアドバイスによるものがその“もと”であり、その影響がどのような形でどのくらいの割合で存在している」といったことは本来簡単に解るものです。

もちろんこれは作品にとどまらず、一見「自分のアイディア」のようにみえるものでも 「もと」は必ず存在するものです。「ひらめき」といわれるものも同じ、延いては職業としてのひとつひとつの仕事も、「もとより」それが何処の誰の縁や紹介で始まりその後どう発展したものか、辿れば明確に特定できます。

そういった多種多様な「もと」やそこから触発されたものごとを、自分で組み合わせて混合したり翻訳したりして編集したものが、俗に「オリジナル」といわれているものの正体です。すべて自家発電で賄っていると思う者がいれば単なるバカか卑怯者にすぎず、他人の影響を認めたがらないのはニセ者の典型的な特徴です。そういったことを忘れたり恣意的にすり替えたりする者の作品あるいは仕事ぶりには、如実にその下劣な様相が顕れるものです。

影響の多寡や種類にかかわらず、その「出処」を絶対に忘れない。これは作品とその作者の品格を形成する主要因であり、この仕事に関わるなかで最も重要なことと思っています。少なくともやきものの良し悪しの境界は、品格の有無以外他にはありません。

 

 

二つめは制作に際してのことです。

これもまた、土や焼きや成形がどうしたこうしたという話ではありません。

 

「手間暇をかける」という言葉があります。

ここまでは、とりたてて別段の問題はありません。

ですが、制作者が「この作品は手間暇かかったから値段が高い」あるいは、「この値段では掛かった手間に“見合わない”」などと発言するのを目の当たりにすると思わず目を背けてしまうものです。他人事ながら、大変悲惨な現場に居合わせてしまったときと同種同質のものを感じるからです。

制作とは即ち「手間暇」そのもののことです。わざわざその「手間暇」を志して生業としたわけです。それを職業に選んだ瞬間、「手間暇こそが人生」となります。ですから「手間暇がかかったぶん代金が欲しい」と僅かでも感じた時点で、これはかなり重篤な危険信号であることを忘れてはいけません。転職を検討するべきです。不思議なことに、“細工もの”や“オブジェ”を手掛ける作者に「手間暇」を口にする傾向が多く見られますが、上記の理由で明らかに本末転倒です。

(余談ですが、「細密な細工を要する作品」は時間や手間暇がかかると通常考えられがちですが、「轆轤で挽いただけのもの」を「見るに堪えうるもの」にするには、その下準備に膨大な時間と手数を必要とします。轆轤挽きは一瞬ですが、それまでの作業が制作行程の「手間」のほとんどを占めます。薪窯焚きなどは手間のうちに入りません。制作総エネルギー量と費やす時間、経費、そして手間暇は間違いなく後者の方が格段に上がるということは、外からは判別し難いと思いますが事実です)。

 

それでもここまでであれば、まだ本人が勝手に「手間暇な生活」を送っていればよいだけのことですが、それを「値段」に上乗せしようとするのは下劣かつ下品な行為です。そのような者の作品には確実にその下品さが顕れます。

作者が「手間」であろうが「暇」であろうが、それは買う側の責任ではありません。手間が掛かっていようがいまいが、買う側の知ったことではないのです。商品は作品であって作業行程ではなく、その価値の一切は作品そのものであり掛かった手間暇ではありません。

 

前置きが長くなってすみませんでしたが、その二つめは、制作に関するたとえ如何なる作業であれ、一度でもそれを「手間暇」と感じたならば即座に廃業するということです。

もっとも、一つめに挙げたことをやはり外したならば、人間そのものを即座に辞めなければなりませんが・・・・。

 

 

ーあとがきー ですよ

さらに絶望的に恐ろしいことがひとつあります。それらのことが出来なかったとしても、そのことを自分で感知できないことです。

例えば私が、どなたかに『「これはワテ独りで考案したモンや!誰の影響も受けとらん」あるいは、「この作品はむっちゃ手間暇がかかっとるんで、そのぶん他のんより高いんや!」と言う現場に居合わせたならば、手間暇お掛けしますがその場で私をさっさと始末”して下さい。謝礼として二百五十万円差し上げます』とお願いしたところで、相も変わらず「中流意識」が抜けきらない者が多数を占め貯蓄高だけが増え続けるこの現代日本国に在住する限りにおいては、「後々面倒くさいし、その程度の金額では手間暇に見合わんわ」と一蹴されてしまうからです。(あと十倍ほど弾むには残念ながら無い袖は振れず、「しかるべき国」に渡航を試みて拘留などされた日には手間暇に見合わず、あるいは「死にかたの選択権」などをこの国に主張してみたところで、やはりその手間暇に見合わないでしょう)

 

ー続・あとがきー ですよ

※個展時の在廊並びにそのための公共交通機関を使用しての移動がとにかく嫌で、手間暇どころか「ほんとうにしにそう」になるのですが、これは゛制作時以外”のことなので、手間だ暇だと騒ぎ立てていてもどうぞお見逃しのほど・・・・・本稿の「もと」が何だったか、そろそろ分からなくなってきました。